席亭への道 ~服部、落語に沼る人生
月刊「シン・道楽亭コラム」 第2回
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新米の落語ファンの婆さん(私)は、浴びるように落語を聴いた(画:とつかりょうこ)
みなさま、こんにちは。シン・道楽亭の共同席亭、服部晶代です。還暦を過ぎた、落語好きの婆さんの私が青天の霹靂で、なぜ新宿のミニミニ演芸場のお席亭になったのか、そのご縁などをお話させていただきます。ご笑覧いただければ幸いです!
#1 落語との最初の出会い期 ~10代の私
私が生まれた1959年(昭和34年)は、テレビが白黒からカラーに変わる過渡期。テレビがなければ、夜も昼も明けなかった。『シャボン玉ホリデー』や『ザ・ヒットパレード』、『ゲバゲバ90分』『8時だヨ!全員集合』などがお茶の間で人気を博した。
時折、無意識にチャンネルを回すと登場するのが、きれいな上方言葉のおっちゃん(私が生まれ育った愛知県は便利で、東京の番組も大阪の番組も見られるんです)。面白いことを言う司会のおっちゃんかと思ってた。それが後の人間国宝、桂米朝だった。
数年後、座布団の上で股を少し割って、斜め向きに正座してるおっちゃんがテレビでシュールなことをしゃべっている。風変わりな人。でも最後まで見続けた。桂枝雀だった。
テレビ番組『笑点』の大喜利が落語ではないことは知っていたが、それ以上に落語への興味は続かなかった。だって、世の中は面白いことだらけだったもん。とりあえず、出会い期はおしまい。
#2 神託を得る ~22歳で大先輩の一言
文学少女から、食うために教師になった新規採用の年。同じ大学で国語専攻だった縁で、めちゃくちゃ授業の上手な先輩に勝手に私淑した。
私の下手くそな授業を丁寧に観察指導をしてくれた後、先輩は言った。
「あなた、落語を聴いたことある?」
頭に浮かんだのは、枝雀のみ。
「あるような、ないような……」
「落語を聴いてごらんなさい、何かが変わるから。できればナマの落語よ」
当時は、YouTubeも有料配信もない時代。地元には大須演芸場があるが、足を運ぶことはなかった。先輩は「落語を聴くと“何”が変わるか」は教えてくれなかった。
日々の忙しさにかまけ、私の脳裏に落語は居座らない。一体、先輩はどこでナマの落語を聴いていたんだろう。今もすべてが謎。しかし、この言葉は後年、私の中にふとした時に蘇るのである。