茶色いうどん
シリーズ「思い出の味」 第6回
- 連載
- 落語

今も思い出す、懐かしい料理の味と、かけがえのない時間の記憶
なんとなく、泣いてみた
28歳。東京在住。職業、落語家。今のところ、これ一本で食えている。なんとありがたいことだろう。
それにしても、ここまでどうやって歩んできたのか。いつから、この道を進み出したのか。記憶をたどってみる。
……茶色くなってしまった、哀れなうどん。ああ、あの味が、この人生の最初の一歩だったのかもしれないな。
僕は、父子家庭で育った。両親本人たちはそうは言わないけれど、実際にはいわゆる「喧嘩別れ」で、その後の取り決めがあいまいだったのか、離婚後もゴタゴタにずいぶん巻き込まれた幼少期だった。
暗い話で申し訳ないけれど、今となってみれば──「暗かったからこそ、よかったんだ」そう思う。
小学校2年生のある日、両親が離婚した。その晩、母から突然こう言われた。
「あのね、お母さんたち、お別れしたの」
“離婚”という単語を使わなかったのは、子どもにはまだ理解できないと思ったのかもしれない。でも今考えると、かえってそのほうが悲しい響きを選択している気がする。もし飲食店のシャッターに「閉店」でなく「おしまい」と貼られていたら、やけに感傷的な気分になる。
そして僕のほうは、そう言われてもあまり悲しいとは感じず、それよりもただ、どう反応してよいのかわからなかった。頭がぐるぐると回って、「それはどのように、今後の自分の人生に影響を及ぼすのか」と考えたけれど、さっぱり見当もつかない。
これまで、人生の難しいことはすべて大人が決めていたし、実際、今回も事後報告なわけだ。子どもは家庭の“乗客”であって、“乗務員”ではないのだ。
だからこの先も当面のあいだは、大人の判断に身を任せるしかないのだろう。
「果たしてこれは、自分の未来にとって大事件なのか?」
「それとも、案外なにも変わらないのか?」
結局わからないまま、なんとなく、泣いてみた。子どもだし? 空気に合わせてというか。落語のマクラで、お決まりのギャグでも客席が一応笑ってくれる感じ。
「我々の身分制度は下から、見習い、前座、二ツ目、真打……ご臨終」
「はは」
「お別れしたの」
「えーん」
ついでに、翌日の学校も休んでやった。「この日ばかりは休んでも怒られないぞ」と思って、精神的に傷ついたフリをして、ただサボった。
実際、その欠席について誰からも何も言われなかった。それがかえって虚しくなって、翌日は登校した。学校は、少しスリルを感じながらサボるからこそ楽しいんだな、と余計なことを知る。