このエッセイをすでに読む必要のない方々へ (1)

柳家小志んの「噺家渡世の余生な噺」第1回

このエッセイをすでに読む必要のない方々へ (1)

池袋演芸場で行われた「柳家小志ん独演会」での一枚

柳家 小志ん

執筆者

柳家 小志ん

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声がかかる理由、断れぬ理由

 「この連載を、あなただからお願いしたいのです」

 編集部のIさんは、そう言った。「あなただから」。人は不思議なもので、そんなふうに言われると、照れくささと少しの誇らしさが胸をくすぐる。けれど、いちいち真に受けて浮かれるほど、こちらも若くはない。おだてに乗るほど、もう純情でもないつもりだ。

 話を聞いてみれば、私のこれまでの職歴、そして噺家という少々変わった稼業がこの連載にちょうどいいと言う。なるほど、理にはかなっている。人前に立ち、言葉で飯を食う。笑わせ、泣かせ、ときに自ら涙する。それが噺家という生き物だ。

 どこか哀れで、どこか滑稽で、そして何より人間くさい。その匂いに目を留めてくれたのなら、こちらも少しぐらい身を乗り出してみようか、という気にもなる。ところが、Iさんが最初に持ってきたテーマには首をひねった。

 「落語と老後」――。

 いや、そりゃないだろう。落語というのは、老いですら笑いに変えてしまう芸なのだ。そこに「老後」などという言葉を掲げてしまったら、一気に湿っぽくなる。まるで終活パンフレットだ。

 落語の本質は、枯れていてもどこかに余白と可笑しみを残すもの。老後などと仰々しく言われてしまっては、まるで幕引きの鐘の音が聞こえてくるようで、どうにも明るい気持ちにはなれなかった。