ドンといけ美馬 (前編)

鈴々舎馬風一門 入門物語

全日本学生落語選手権

冬になり、毎年恒例の全日本学生落語選手権への大会遠征に参加することになった。全国各地の落語研究部に所属している猛者大学生たちが岐阜に集まるのだ。私も先輩と同期と一緒にエントリーした。大会に向けてもちろん猛練習をして臨んだ大会は、予選と決勝の二回戦。自信があったわけではなかったが、初挑戦の予選は惨敗。決勝に進むことはできなかったことが悔しくて、来年こそは絶対に決勝に上がるんだと決意を新たに帰京した。

大学2年生になり、学生落語の夏の大会。昨年の悔しさをバネに夏大会への初エントリーすると決勝戦に進むことができて、なんとベスト4の成績を残すことができた。自分でも驚きの結果だった。ほらやっぱり私は特別なんだ。その大会で司会をされていたのが、今の兄弟子の鈴々舎馬るこ師匠で、「プロになりたかったら相談に乗るよ」とありがたい言葉を頂いてしまった。プロの落語家の方に認めてもらえたようでとにかく嬉しかった。

2年生の冬も、昨年逃した決勝への切符を手に入れられるように、また全力で臨む。私の全力は結構全力だと自分でも思う。他の人たちの練習量がどれくらいかは知らないが、寝ても覚めてもずっと落語のことを考えて、いつも誰より長い時間稽古をする。

決勝進出者発表の場で自分の名前が呼ばれた時は、胸がぐっと熱くなる思いがした。決勝戦は先輩たちに交じり、1,700席の大ホールで6分の落語を披露する。私が選んだ演目は『くしゃみ講釈』。全身全霊で演じた。しかし、惜しくも優勝を逃してしまった。

「どうして優勝できないんだ。絶対に来年、リベンジするぞ!」と心に誓った。

負けられない戦い

大学3年生になり、学内での落語研究部の活動が評価されるようになると、地元のタウン誌や全国紙などで記事に取り上げてもらうようになった。すると、そこからテレビの密着取材の話まで舞い込んだ。地域の福祉施設やお祭りでの高座や学園祭などの高座に付き添ってもらいながら、約半年間の密着取材。『モーニング娘。』になりたかった私は、それはもう嬉しかった。

そして、そのまま冬の全国大会も取材されることが決まった。まだ決勝に進出できるかも決まっていないのに。全国放送でのテレビ取材で予選敗退は絶対に避けたい。自分にとって本当に負けられない戦いだった。

予選で挑戦したネタは、『火焔太鼓』。大きなネタを精一杯試行錯誤しながら、6分間にまとめた。予選会は、一般のお客様の前で行われる。沢山のお客さんに笑ってもらえた悔いの残らない高座ができたとは思ったが、決勝に上がれなかったらどうしよう。密着取材のカメラに、どんな顔を向ければいいんだ。予選通過の結果発表が、ただただ恐ろしかった。

結果発表で私の名前が呼ばれた時は、まず心底ほっとした。それからようやく「今年こそ、絶対に優勝するぞ」と気を奮い立たせて迎えた決勝本番。大きな会場で高座に上がるまで、足が緊張で震えた。座布団に座り、頭を上げるとスポットライトが眩しくて、とにかく必死で話し出す。自分の声と会場いっぱいのお客さんの笑い声がホールに響いてふわふわと包み込まれる気持ちになり、6分間まるで時間がとまったかのように感じた。

噺の終盤で、太鼓が売れて大金をおかみさんの前に出す時、おかみさんが大金を前に驚いて「すみません、お水いっぱいください」と前のめりになるところで、座布団で足が滑り、座布団に寝そべる形で高座にダイブしてしまった。不本意だったが、そこが一番ウケた。今でも覚えていてくださる方がいるほどのインパクトを残したが、実は事故ダイブだった。

あっという間に出番が終わり、舞台上での結果発表。ステージが暗くなり、ドラムロールが鳴り響く。スポットライトが当たったのは、私の隣だった。胸がぎゅっと締め付けられる。まただ……。とにかく悔しくて悲しくて、堪らなかった。帰りの夜行バスでこっそり泣いた。

春に密着取材のテレビが放送されると、私のことが少しだけ話題になった。落語をやること自体も楽しいが、自分が頑張るほど喜んでもらえたり評価してもらえるのが嬉しくて、この上ないやりがいを感じていた。

その頃から、ぼんやりとプロになりたいと思うようになった。ただ、プロの修行の大変さは想像することしかできないが、「消極的で打たれ弱い私が、とても乗り越えられるようなものではない」という思いの方が強かった。

(後編に続く)