百済観音
林家きく麿の「くだらな観音菩薩」 第1回
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- 落語
いないのに感じる存在
久しぶりに法隆寺に行ったのは、いつだったかな? 確か前妻が奈良の生まれだったので、彼女の実家に一緒に帰ったときに行ったんだ。そうそう。その頃はすっかり仏像好きになっていて、中学生以来の法隆寺にドキドキ・ワクワクして行きました。
門の仁王像(におうぞう)からワクワクして、五重塔を見上げてヘボヘボして、金堂へ。釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)を前にして、ん? なんか違和感……。
「あれ? 百済観音っていたよなぁ?」
「どこ行っちゃったの? ここの端っこに、いたはずだよなぁ?」
まだ大宝蔵院の存在を知らなかった私は、何もない金堂の隅に百済観音様の存在を感じていました。いない場所に存在を感じること、ありますよね。
たとえば、可愛がっていたワンちゃん・ネコちゃんが亡くなって、悲しみに暮れているとき、ふとソファを見ると「あぁ、いつもここに寝ていたなぁ」と、もうそこにはいないのに、いつもいた場所や風景、空間に存在を感じる。これも生(これ「せい」ね、「なま」と読まないでね)なのかな。
もう何もない場所に生きていた証(あかし)があることに、不思議な気持ちになりますよね、ね。
あ、そういえば、紙切りの大師匠、林家正楽師匠が亡くなったとき、鈴本演芸場の楽屋のテレビの前の座布団、師匠はいつもその場所に座っていらしたので、そこに正楽師匠を感じて、胸がキュッとなったことがあります。
この話を同期の噺家仲間と飲んでいるときに話したら、「おい! 正楽師匠とペットを一緒にしちゃダメだよ!!」と怒られたのを思い出しました。
心が震える
お話は戻ります。金堂を後にして、大宝蔵院に辿り着いた私。「何じゃ、この立派な建物は!」「いつできたの?」「わー、すご~い!」「なんて素敵な空間なんだ!」と、心の中で小躍りをしつつ鑑賞をしていると、左右に分かれる院をつなぐ通路に差し掛かりました。
そこになんと! 百済観音様がいらしたのです。
ぐわーー!
ぎょえ~!
心に響く、百済観音様の素晴らしさ!
心に響くって、すごいことだと思うんです。常に思っているのは、人の心を動かせるのは、心でしかないと。絵を観て、彫刻を観て、映画を見て、仏像を観て、落語を聴いて感動する。
この感動って、「心が震える」ってことですよね。まさに琴線に触れるってやつです。
百済観音様の立ち姿、優しいお顔立ち。この像を作った人は、よほど多くの人たちを救ってあげたかったんだな。この仏様に救いを求めたんだ! 作者の気持ちが私の琴線に触れ、拝観料の高さも気にならないほどの金銭感覚にも触れてしまいました!