2025年7月のつれづれ(沢村豊子の急逝、広沢美舟の10周年)

杉江松恋の月刊「浪曲つれづれ」 第3回

2025年7月のつれづれ(沢村豊子の急逝、広沢美舟の10周年)

松尾芸能賞功労賞受賞記念 沢村豊子を祝う会(2021年6月21日)

杉江 松恋

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杉江 松恋

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浪曲界の至宝、沢村豊子の急逝

 浪曲界は至宝を失った。

 去る6月18日、関東浪曲界において、曲師の頂点を極めた一人である沢村豊子が急逝した。享年88。死はいつでも突然来るものだが、この報はあまりに急すぎた。事実を受け止められず、私はしばらく呆然とした。同じ思いをされた方も多かったのではないか。

 沢村豊子は1937年に福岡県で生まれ、佐賀県北方町(現・武雄市)で育った。11歳のとき、九州巡業をしていた浪曲師・佃雪舟に曲師の卵として見いだされ、共に上京する。名手・山本艶子に手ほどきを受け、わずか2ヶ月で佃美舟の名をもらい、雪舟の巡業で三味線を弾いた。

 約5年の年季が明けると、木村小重友こと後の国友忠に請われ1954年からは相三味線となる。国友忠は文化放送において、1959年4月1日から1963年12月31日までラジオ小説「銭形平次百話」という番組を持った。日曜日を除く毎日の放送が、四年半以上にわたって続けられたのである。その三味線は、もちろん豊子が弾いた。

 番組終了後の1964年、世間が東京五輪の話題で湧く中、国友忠は浪曲師の第一線から退き、茨城県古河市で競走馬の牧場主になる。それにつきあって豊子も27歳で曲師を辞め、忠の近所に住んで牧場の手伝いをしながら日々を過ごすようになった。

浪曲界への復帰と曲師の頂点へ

 約15年に及ぶ引退生活終焉のきっかけを作ったのは、元浪曲師・南條文若こと三波春夫の妻・ゆきだった。春夫と結婚する前は港家小雪の名で活動していた芸人でもある。

 姜信子『現代説教集』(ぶねうま舎)によれば、春夫がNHK「ビッグショウ」で浪曲を唸ることになり、ゆきからその三味線を弾くよう頼まれたのだという。それがきっかけで沢村豊子健在の報が伝わり、浪曲界に呼び戻された。

 以来、多くの浪曲師を弾き、美しい音締めの三味線で背中を押して、彼らの舞台を支え続けた。曲師としての頂点を極めたのは国本武春の相三味線を務めた時期ではないか。武春は2015年に亡くなったが、全盛期の音源を聴くと節と三味線の迫力にひたすら圧倒される。

「音締めの良さはもちろん、スピード感あふれる早節のテクニックと少女のような掛け声は、今や私の浪曲になくてはならない大きな存在であります」(国本武春『待ってました名調子!』(アールズ出版)。

 2003年からは、曲師から浪曲師に転向した玉川奈々福の三味線も弾くようになり、国友忠のもとへ誘って稽古をつけるなど、芸人としての一本立ちを支えた。

 公私を共にするほどの密接な時期があったといい、奈々福作「豊子と奈々福の浪花節更紗」にその模様は詳しい。「あんたがさ、二葉百合子先生のような看板になる覚悟があるんなら、弾いてあげるよ」と浪曲師になってまだ2年目の奈々福に言ったのだとか。