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〈書評〉 神田愛山半生記 愛山取扱説明書 (神田愛山 著・瀧口雅仁 聞き手)

杉江松恋の「芸人本書く派列伝 オルタナティブ」 第3回

翻弄された心と師匠の温情

 この山裕に負けたくだりで愛山は「一回目と二回目は先輩が受賞して、いざ三回目。私だと思っていました。ところが弟弟子の山裕に取られた」と語っているが、それは間違い。山裕が受賞したのは同賞の第二回だからだ。

 その前年が第一回で神田小山陽と神田伯梅が受賞した。後の人間国宝・三代目神田松鯉と、講談協会会長・八代目一龍齋貞山である。二人受賞だから二回分と記憶違いをしたのかもしれない。第三回は宝井鶴州こと後の四代目宝井琴柳、1981年の第四回でようやく一陽が受賞できた。

 このように、講談界からまったく無視されていたわけでもないはずなのに、一陽の心は沈み、飲酒は止まらなかった。1984年11月に決定的な事件が起き、師匠・山陽から故郷の清水市に帰って更生するように命じられる。「破門ではなくて謹慎だ。だから席は遺す。君は病気なんだ」と山陽は言ったという。

 当時の人としては珍しく、依存症という心の病気に関する理解があったのだ。愛山が振り返るように、弟子を心配して勉強したのかもしれない。山陽は「僕のことを逆恨みしてくれてもいい」とも言ったという。

断酒と復帰、芸の深みへ

 それから断酒治療の日々が続き、1985年12月12日になってようやく東京へ戻ってこられるようになった。酒はきっぱりと止められた。味はもともと好きではなかったし、熱燗の匂いは耐えられないほどだった。麻痺するために飲む酒だったのだ。

「講談研究」1986年1月号は巻末でひっそりとそのことを報じ、「すぐれた資質の持ち主」の「節制と活躍を期待してやまない」と書いた。1987年3月号の同誌は巻頭で一陽の真打昇進と二代目愛山襲名を取り上げ、「お祝いの言葉」を精神科医・なだいなだが書いた。

 まだ理解者の少なかった依存症について述べ、そこから社会復帰した愛山を次のように讃えている。神田愛山という人の芸を象徴しているかのような文章なので、引用しておきたい。