仲蔵や北斎も日参した開運のお寺 ~柳嶋妙見山法性寺

神田紅佳の「あやかりたい! 幸せお江戸寺社めぐり」 第1回

歌川豊国と桂文治

 このほか、この法性寺の妙見さまを訪ねた著名人は枚挙にいとまがない。その足跡は、記念碑となって今も法性寺に残されている。

 「豊国の後に豊国なし」と言われ、役者絵で人気を博した初代の歌川豊国は、死後四年目にあたる文政12年(1829年)、戯作者の山東京山(さんとう きょうざん)がその名を惜しみ、法性寺の境内に碑を建て、豊国の使った絵筆208本を埋めて供養した。

 また、落語家の六代目桂文治(1864年~1911年)の碑も現存。熱心な信者であったようだ。

▲初代歌川豊国筆塚
▲六代目桂文治の碑

柳嶋妙見山法性寺の縁起

 治承四年(1180年)、伊豆の石橋山の合戦に敗れた源頼朝は再起して、上総から下総へ入り、柳嶋に陣をしき、そこにあった松の大木に源氏の旗を掲げた。すると千葉常胤(ちば つねたね)などをはじめとする援軍が駆け付け、戦局は一変。のちに征夷大将軍になった頼朝は、源氏の旗を掲げた土地、つまり開運の土地、柳嶋を千葉常胤に与えたが、それ以来、この松を「鎌倉殿旗揚げの松」と呼ぶようになった。

 それから約300年後の明応元年(1492年)。室町時代となり、足利の世となったが、このころ「鎌倉殿旗揚げの松」の梢が光り出したという。時を同じくして、下総国の弘法寺にいらっしゃる法性房日遄(ほうしょうぼう にっせん)という高僧が、光輝く松の話を聞き、はるばる下総から柳嶋へとやってきた。このころ、日遄上人は北辰妙見大菩薩の夢を見続けていたという。

 その日遄上人が「鎌倉殿旗揚げの松」の前に祭壇をしつらえ、法華経を詠んだ。とたんに松の梢に光明が現れ、上人をはじめ、村の人々はその光に目を奪われたが、上人がふと祭壇に目を落とすと、すぐさま平身低頭して礼拝したという。その様子に驚いた村の人たちがそっと祭壇を見ると、とそこにはなんと、妙見さまの霊像が鎮座していたという。

 これに歓喜した日遄上人は、すぐさまその場に寺を建て、柳嶋妙見山法性寺と名付けたのである。