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流れもの日記 (後編)
鈴々舎馬風一門 入門物語
- 落語
名前が決まった日
何日かして、大師匠のお宅へ師匠と向かった。
いかにも噺家の風情漂う格子戸をうちの師匠が横に開けると、大師匠のお内儀さんが玄関に立っていて出迎えていただいた。
「よく来たね、いらっしゃい」
僕は何をどう答えていいかわからず、只おどおどするしかなかったが、とっさに答えた。
「神奈川の方から来ました高瀬誠也と申します。よろしくお願いします」
我ながら、変な挨拶だ(笑)。奥で微笑みを浮かべるのは、八ゑ馬(現・風柳)兄と、かゑる(現・平和)兄だった。それでも大師匠に、大師匠のお内儀さん、師匠、八ゑ馬兄、かゑる兄、僕。みんながひとつ屋根の下にいる空間は、とっても温かい風の流れる空間だった。
その後、兄弟子たちと皆でお内儀さんお手製の料理をいただく。本当に美味しくて、びっくりした。
僕は緊張もあって、食べていた箸を床に落としてしまった。するとその瞬間一秒とかからないうちに手元に戻ってきた。一瞬、何が起きたのかわからなかったが、隣に座るかゑる兄が目にもとまらぬ速さで床に落ちた箸を拾い、すぐに手元にまで渡してくれたのだ。呆気に取られ、「ありがとうございます」と言うしかなかったが、内心面食らった。
「こんな瞬時に箸を拾えるなんて、前座修行はどれだけ大変なんだろうか。。少なくとも何年経とうが、こんな素早い行動を自分が取れるとは思えないぞ。大丈夫だろうか。僕は」
不安を余所に、僕はその日、名前が決まった。お内儀さんが真っ白な半紙いっぱいに僕の名前を書いてくれていた。半紙には「あお馬」と書いてあった。僕の師匠小せんは、二ツ目時分は「わか馬」と名乗っていた。その弟子で「あお馬」。丁度この時は、緑の青々と茂る六月だった。
この後、師匠とともに上野にある落語協会に向かった。師匠はその日、僕の履歴書を落語協会に提出した。「柳家あお馬」としての人生も始まった。
大師匠が出迎えてくれた時のにこやかな顔、お内儀さんの手料理、兄弟子の箸を拾い上げる速さを思い出しながら、一人暮らしのアパートへ帰った。師匠から教えてもらった着物のたたみ方を稽古して寝た。
さて、明日はどんな一日になるだろう。
(了)