このエッセイをすでに読む必要のない方々へ (1)

柳家小志んの「噺家渡世の余生な噺」第1回

語り継ぐこと、綴るということ

 こういう話を同世代の噺家や古い知人とする。すると、どういうわけか盛り上がる。「あるある」と言いながら、気がつけば酒も進んでいる。昔、楽屋で先輩たちが病気や薬の話ばかりしていたのを見て、「なんだか夢のない話だな」と思っていた。だが、今になってよく分かる。あれは現実の確認作業だったのだ。年を重ねるというのは、そういうことなのだ。

 だからこそ、この連載に「落語と老後」などという湿っぽい名前は似合わない。もっと、肩の力を抜いて、柔らかく、少しだけ切なく、それでいて笑えるタイトルがほしかった。私は「噺家渡世の余生な噺」と名付けた。噺家という稼業を通して見てきた人生の断片。哀しいこと、可笑しなこと、そして、ほんのわずかな真実。そういうものを、この余生の語りとして、少しずつ綴っていきたいと思っている。

 この文章を読んで、何か得る人は、おそらくいないだろう。むしろ、「もう読む必要のない方々」へ向けた、静かな語りである。その意味を次の(2)で、もう少し丁寧に語ってみたい。

 老いというものは、大声で語るものではない。静かに、可笑しく、そして自嘲を込めて笑いながら、そっと話すものだと思うのだ。

(毎月14日頃、掲載予定)