そしてわたしは宇宙一の美人浪曲師になった

東家千春の「宇宙まで届け! 圧倒的お転婆日記」第1回

うっかり入門

自分の生活のすべてを注いでいた「桃と虎」が解散して、呆然としたわたしは時間を持て余し、普通自動車の免許を取ったり、恋をしたり、海外旅行に行ったりしました。

そんなある日、友人のコント作家である向田邦彦さんに、「友人が浪曲師になって、今度見に行くんだけど、一緒に行かない?」とお誘いいただきました。その時の浪曲師が、いま飛ぶ鳥落とす勢いの超売れっ子、玉川太福兄さんです。浪曲の「ろ」の字も知らなかったわたしにとって、太福兄さんの浪曲のおもしろさは衝撃でした。あっという間に夢中になり、太福兄さんの会だけでなく、浪曲の寄席である浪曲定席木馬亭や、日本浪曲協会の大広間で毎週開催されている火曜亭にも足しげく通うようになりました。

いままでの活動で、見ているよりも自分でやってみるほうが楽しいことを知っていたわたしは、お江戸上野広小路亭で浪曲のカルチャースクールを開催していることを知り、さっそく申し込んでみました。そこで出会ったのが、のちに自分の師匠となる東家三楽と、お三味線の伊丹秀敏師匠でした。

スクールの初日、ドキドキしながら教室に行ってみると、まだ開始時間ではないのに、教室の中から浪曲を唸る声と三味線の音。教室には、たくさんのおじいさん。一人が唸り終わると、次のおじいさんが唸り始め、淡々と三味線を弾く秀敏師匠。「なかなかいいんじゃない」と、一言コメントする三楽師匠。

そして、わたしの番がやってきました。壇上に立たされ、「あなたは何やるの?」と聞かれました。「何やるの?」。わたしは、カルチャースクールといえば、テキストが渡されて基本から教えてもらえるものだと思っていたので、面食らいました。戸惑っているわたしに師匠は「じゃ、何が何して何とやら~♪って、やってみて」とヒントをくれました。容赦なく三味線を弾き始める秀敏師匠。何がなんだかわからないまま、大声を出すわたし(大声を出すことには慣れている)。そして、秀敏師匠に「いい声じゃない」と言われ嬉しく、調子に乗って嬉々としてスクールに通い続けました。

スクールの後には必ず懇親会があり、参加されているおじいさんたちからいろいろなことを教えていただきました。ある時、秀敏師匠が隣に座り、「あなた、いい声だし、プロの浪曲師になりなさいよ」と言われました。「ああプロ……、プロになる道もありますかねえ」と何となく曖昧に相槌を打ったところ、秀敏師匠が「路子さん、路子さん! この子、プロになりたいって!(当時、師匠は東家三楽を襲名前で、富士路子という芸名でした)」。師匠が「あら、そう、じゃあ、ルノアールに行きましょう」。

その後、師匠、師匠の後援会のお客さま、わたしの三人で喫茶店のルノアールに行き、わたしは弟子入り決定となりました。弟子入りって、悩んで悩んで、楽屋で出待ちとかして、勇気を振り絞って、するもんだと思っていました。飲み会の後のルノアールで決まるとは。これが平成三十年のこと。翌年の令和元年に日本浪曲協会に入会し、わたしは浪曲師の前座となりました。

覚悟もないまま前座となり、いままで自由奔放に生きて来たわたしは、「前座修行がこんなにつらいなんて、聞いてないよ~!」と思いましたが、持ち前のポジティブさで乗り切ります。そして、令和五年十一月二十三日、妹弟子の東家志乃ぶさんと浅草木馬亭で「年季明け興行」を行い、晴れて前座から卒業。そこからは舞台が楽しく楽しく、思いついたことは何でもやろうと、日々忙しくしております。

八尾ポップさん、わたしを振ってくれてありがとう! おかげさまで、いまは浪曲師としてとても幸せです!

初舞台の時のわたしと妹弟子の志乃ぶさん

(毎月3日頃、掲載予定)