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〈書評〉 寄席切絵図(六代目三遊亭圓生 著)
杉江松恋の「芸人本書く派列伝 クラシック」 第1回
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六代目圓生が綴る寄席の記憶
かつての東京では、落語の寄席は生活圏内にあるものだった。
これは心理的な距離を言っているわけではなくて、物理的なそれのことである。六代目三遊亭圓生『寄席切絵図』(青蛙房)を読むと実感される。ああ、町内にあるものだったのだな、と。
現在の東京に定席と呼ばれる寄席は四つある。上野の鈴本演芸場、浅草演芸ホール、新宿末広亭、池袋演芸場だ。1979年に国立演芸場が加わったのだが、政府が改築の名目で閉じてしまい、現在は紀尾井小ホールなどで間借り興行を打っている。再開の目途は立っていない。萩生田光一が担当大臣だった当時の文部科学省を私は一生恨むであろう。
それはともかく寄席は片手で数えられるほどに少なくなった。だが現在の東京都が東京市と呼ばれ、二十三区ではなく十五区であった大正年間には90余りの寄席があった。1923年の関東大震災で多くが焼失したが、それでも大正末年には十五区内に96軒、それ以外の府下に89軒が存在していたという。大衆娯楽として寄席の需要があり、それに応えて営業することができるだけの経済が回っていたということだろう。『寄席切絵図』巻末には、1921年と1926年の寄席一覧が掲載されている。
話楽生Webの読者の皆様には、六代目圓生はご案内だと思うのだが、昭和の名人となるまでを一応振り返っておこう。
実は大阪府生まれであり、両親の離婚後に母に連れられて東京に移住している。5~6歳のころから義太夫を習い、豊竹豆仮名太夫(とよたけまめがなだゆう)の名で学齢に達するころから舞台も務めていた。三味線を弾いていたのは母で、彼女が五代目三遊亭圓生と再婚したことから、落語界とのつながりができる。やがて義太夫を離れて、落語家・橘家圓童(たちばなやえんどう)となり、何度かの改名・襲名を経て、1941年に六代目三遊亭圓生となった。
満10歳にもならないうちから落語の高座を勤めていたわけで、失われた明治・大正の古い寄席の記憶をたくさん持っていた。『寄席切絵図』はそれをまとめた一冊なのである。題名通り、対象となる寄席周辺の切絵図も多数収められており、それを元に寄席跡地を訪ねることも可能だ。私も何軒か、今は亡き寄席を訪れ、昔に思いを馳せた。
15の区ごとに章立てがされており、それ以外の場所の寄席が後に続く。現在も存続している寄席は2軒しか記載がない。下谷区の鈴本亭、のちの鈴本演芸場と、四谷区の末広亭である。それぞれのページを見ていこう。