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オシャレだね その一言が 聴きたくて(前編)

三遊亭朝橘の「朝橘目線」 第4回

オシャレだね その一言が 聴きたくて(前編)

この赤いジャンパーを着て笑顔を見せる過去の私。抱きしめてやりたい

三遊亭 朝橘

執筆者

三遊亭 朝橘

執筆者プロフィール

春を待ち望む小学生

 生まれてから高校時代までは、親が選んだ服を着ていたと思う。小学生の頃は、わざわざ故郷の沼津から隣の富士市まで行って、親の知り合いの営む子ども服屋に行って私の服を調達していた。

 小学三年か四年の冬のこと。リバーシブルで、裏地にポップな宇宙の絵が描かれた、ド派手な厚手の赤いジャンパーを親にあてがわれたことがあった。もちろん、富士市の子ども服屋での購入品。今思うと、あれは良いものだった気がする。どこにでもある量産品とは一線を画す、センスあふれる品だったんだと思う。あくまで今思うと。

 小学生の頃は何しろ、目立つこと自体が大変なリスクとなる。学校内で大の方をしてしまったら、「うんこマン」の二つ名がもれなく授与される時代。今はもう、そういうのはないと思いたい。幼児の頃はまだ親に言われるままでも、小学生にもなれば、子どもなりに自我も芽生える。特にみんなと違う、は子どもにはきつい。

 みんな普通の上着で登校する中、上記のジャンパーは死ぬほど目立つ。モノクロの世界に一人、ウォーリーが飛び込んで「探してごらん?」って言っているようなもの。ランドセルだって当時は男子が黒、女子は赤。真っ赤なジャンパーの男子など、私以外誰もいない。周りの連中が好奇の目で見るのも無理はない。

 級友に散々からかわれた。中も見せろよと迫られ、めくった裏地を見て爆笑された。もう嫌で嫌で、帰宅して親にこんなもの着たくないと、泣きながら抗議したが聞き入れられず。

 「これは高かったんだから」的な理由で、引き続き着用するよう厳命された。あれほど春を待ち望んだことは、後にも先にもないかもしれない。

落語家にとってのファッション論

 その後ほどなくして、その店自体がなくなったのか、あの服屋には行かなくなり、沼津市民なら今なお懐かしむ、リコー通りのイトーヨーカドーが衣服選びの場に移行した……気がする。後は仲見世商店街の服屋だったかな。そこまではっきり覚えていないのは、それだけあの服屋が強烈に印象に残ってしまっているからだと思う。

 あの赤いジャンパーの色も柄も、はっきりくっきり覚えている。それがいかにポップでキュートでアートな逸品でも、自分にとってはドラクエで言うところの“呪われた装備”だった。近所に教会もなかった。

 中学・高校は制服だった。制服、もしくは指定のジャージ。制服は楽で良い。学校生活だけでなく、放課後の外出から法事まで行ける。日々あれこれ悩む必要がないのは実に効率的だ。

 落語家の中には、普段から着物で過ごす人もそこそこいる。というか最近増えている気がする。いちいち理由は聞いたことないが、大半は「面倒ごとを減らす」のが目的だと思う。いつも着物の先輩が某有名ホテルに浴衣で行ったが、何も咎められなかったと言っていた。

 「浴衣なんて、寝巻みたいなもんなのになあ」

 じゃあ着て行くなよとも思ったが、浴衣であろうが着物状の形をしているだけで、現代社会ではある程度以上、ちゃんとした格好という認識をしてくれる。下手に洋服を吟味するより、商売道具の着物を普段から着ている方が、色々楽だし私服を買う必要もないからお財布にも優しい。

 仕事の時も高座用の羽織だけ持って行けば良いから、荷物もぐっと減らせる。「落語家さんらしくて良いですね」などと持て囃されたりもする。非の打ち所がない。

 ……あれ、落語家さんはみんな普段から着物でいりゃいいんじゃないのか?