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どの噺からするべきなのか
柳家小志んの「噺家渡世の余生な噺」 第3回
- 連載
- 落語

石垣島の玉取崎にて撮影
第一部:噺の数だけ、迷いがある
季節が変わった。初稿を書いてから、もう二ヶ月が経った。
思えば第1回と第2回は、いわば照れ隠しのようなものだった。あるいは煙に巻いたつもりだったのかもしれない。だが、いよいよ本題に入らねばならぬ。さて、何から語るべきか。
実を言えば、綴ってみたい噺は、十を優に超えている。それぞれに①②③と続きそうな長さで、既に季節が一巡しそうな気配がある。おまけに明日になれば、また別の噺を思いつくに違いない。そうなると、収拾がつかなくなるのも時間の問題だ。
ただ、困ったことが一つある。私は実務より、あれこれ考える時間のほうが好きなのだ。
文章を書く時も机に向かい、あれでもない、これでもないとシミュレーションを繰り返す。ある噺と別の噺を混ぜてみたり、結末を変えてみたり、言葉の順番を並べ替えてみたり。
落語会なら、テーマは何にするか、構成はどうか、ゲストは誰で、ネタは何か――。頭の中では既に番組表が完成していて、イメージの中で「幻の落語会」が開催されている。そのシミュレーション作業が、堪らなく楽しいのだ。
資格取得も趣味の一つだが、試験勉強もただの暗記ではなく、日常と結び付けて覚える。その知識が役に立つ瞬間を想像するのが、堪らなく面白い。
梶井基次郎の短編小説『檸檬(れもん)』には、主人公が果物屋で買った一つのレモンを、丸善の画材売り場の棚にそっと置き、まるでそれが爆弾であるかのような幻想に耽る場面がある。あの一節が、私は堪らなく好きだ。
鬱屈とした白黒の世界の中で、その小さなレモンだけが異様なまでに鮮やかな黄色を放っている。そして、それが炸裂したかのような想像のあと、店内は白と黒、そして色彩の断片が入り混じる。世界が一度すべて壊され、リセットされたような光景。しかし、なぜか楽しかった記憶だけが、色のついたまま残されている。
そんな情景を思い浮かべるだけで、胸の奥に涼しい風が吹き抜けていくような、言葉にしがたい清々しさを感じるのだ。
だが、問題はそこだ。想像だけで、もう満足してしまう。いざ具現化しようとする頃には、頭の中では既に「高揚感」を得てしまっている。