伝統を纏い、革新を語る 神田陽子(前編)

「釈台を離れて語る講釈師 ~女性講釈師編」 第11回

伝統を纏い、革新を語る 神田陽子(前編)

神田陽子 近影(日本講談協会HPより)

瀧口 雅仁

執筆者

瀧口 雅仁

執筆者プロフィール

講談との出会いと入門のきっかけ

 毎年10月30日は二代目神田山陽の命日(2000年没)で、日本講談協会では「山翁まつり」が開催される。講談低迷期とまで言われた時代に、山陽は女性講釈師を積極的に迎え入れ、講談界に新風を巻き起こし、昨今の講談隆盛期の礎(いしずえ)を築いた。早くからメディアに進出し、新作や海外公演と、常に新しい講談の姿を追い求めてきた、山陽の高弟である神田陽子に、講談の魅力を尋ねてみた。

陽子 うちに伯父がいたんですが、お笑いをやったり、劇団を作ったり、新劇もやったり、コントや漫才なんかも披露したり、旅に出ては、たまに家に帰って来る。そんな寅さんみたいな人がいたんです。その伯父が一鶴先生と知り合って、講談やってみればと勧誘されて、弟子という形になって。それで私が劇団にいた時に、師匠山陽の『レ・ミゼラブル』のテープをいただいて、それがとっても面白くて、少女のコゼットからジャン・バルジャンまで一人で演じ分けていて凄い!と。それで入門を決めたんです。

陽子 小学生の頃ですが、家が中野で、近くの大泉学園に東映児童劇団があって、バスで通えたんです。私の祖母がちょっとした資産家のステージお婆ちゃんで、島倉千代子さんとか山田五十鈴さんとかが大好きだったんです。だから私も、小学校の頃は書道、中学校の時はエレクトーンと習わせてもらった芸事の好きな一家だったんです。そこにたまに寅さんが帰って来るでしょ。寅さんが父親代わりで、私は一人っ子だったので、劇団に入れば演劇に関して色々と教えてくれるから、劇団へ入れたらどう?ということで、習い事として通っていたんです。

 そうしているうちに役者になりたくて、高校を卒業して演劇科のある大学を受験したんですが、全部落ちてしまって、それで翌年、文学座演劇研究所に入ったんです。そこで師匠のテープを聞いて、講釈師になりたいと思って、同じ年の夏に師匠の山陽のところへ入門のお願いへ上がったんです。師匠は当時、大久保でしたから、駅前の喫茶店でお会いしたら、「取り敢えず、そこは卒業しなさい。卒業できたら来なさい」ということで、次の年の3月に「卒業しました!」って卒業証書を持っていったんです。

 そうしたらすぐに「陽子」という名前をもらったんです。名前は考えてくれていたんだと思います。そうしたら「テストをする」って、『鉢の木』をやらされたんですけど、全然できないんですが、「いいだろう」って。その時に、あるプロデューサーが、今の紫さんと紅さんと緑さんという方を連れて来ていて、一緒に稽古をしました。