このエッセイをすでに読む必要のない方々へ (1)
柳家小志んの「噺家渡世の余生な噺」第1回
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年を重ねるということ
ただ、「老後」という言葉に無縁だったかと言えば、そうでもない。
かつて私は、職業として老人医療・福祉に携わっていた(高校卒業後、社会福祉法人に八年間勤務)。通信教育学部ではあるが、勤労学生として大学で社会福祉学を学んだ。そしていくつか資格(社会福祉士・精神保健福祉士・介護支援専門員・介護福祉士など)も取った。気づけば、学問ではない、生活の中で触れ、自然と関心が芽生えていた。それは今も続いている。
とはいえ、私は学者でも評論家でもない。ただ、酒の席で誰かに小一時間、語って聞かせる程度の男だ。そんな私がなぜか、こうして「語る側」に回っている。不思議なものである。年を取るとは、こういうことかもしれない。
私は1978年(昭和53年)生まれ。まだ中年の入り口に立ったばかりだと言ってくれる人もいる。「まだ若いよ」と。ありがたい。でも、ご飯をよそってくれるおばさんに「たくさん食べなさい」と言われ、山盛りをぺろりと平らげたその晩、胃もたれに悩まされる。翌日も、そのまた翌日も、胃薬が欠かせない。
気持ちは、いまだ二十代のつもりだ。やりたいことは尽きないし、情熱もまだある。だが、身体がついてこない。徹夜もできなくはない。だが三日後、どっと疲れがくる。まるで、年を取った自分が後ろから「遅れてやってきたよ」と声をかけてくるようだ。
昔は、朝まで飲み歩いた。今じゃ二軒目で「もう帰ろうかな」と思ってしまう。気持ちではなく、身体が先に折れる。「もうええやろ」と身体が訴えてくるのだ。胃腸の話ばかりで申し訳ないが、現実というのはそういうものだ。昔はラーメンで締めた夜も、今じゃ白米を茶碗に軽く一杯。それすらも後で苦しくなる。
睡眠も変わった。一度に長く眠れない。夜中に目が覚めて、そうして気づけば朝の四時。毎朝『暴れん坊将軍』の時間に目が冴える。その『暴れん坊将軍』を眺めながら、その日の気分に合わせたコーヒーとチョコレートを選び味わう。「緑茶に羊羹じゃないだけ、まだマシか」と、自分に言い聞かせながら、番組の内容とはどこか噛み合わない時間を、ただぼんやりとやり過ごしている。若い頃、「いくらでも眠れる」と思っていたあの感覚は、どこへ行ってしまったのだろう。