仲蔵や北斎も日参した開運のお寺 ~柳嶋妙見山法性寺
神田紅佳の「あやかりたい! 幸せお江戸寺社めぐり」 第1回
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中村仲蔵
歌舞伎役者、初代中村仲蔵(1736年~1790年)は、明和三年(1766年)、市村座の九月興行で忠臣蔵が上演される際に、斧定九郎(おの さだくろう)の役が振り当てられる。悪役で格の低い定九郎の役が仲蔵に回ってきたのは、前の興行で立作者(たてさくしゃ:座付作者の首席)と喧嘩をしたため、その嫌がらせであった。
出演するのは、たいして見どころのない忠臣蔵の五段目。俗に弁当幕(べんとうまく:観客が弁当を食べるための時間帯)と呼ばれ、観客もすっかり休憩モードに入ってしまう中で、分の悪い役どころ。これに腹を立てた仲蔵は、雪辱を果たそうと江戸一番のパワースポット、柳嶋の妙見さまへ毎日、参詣する。
やがて、二十一日参りの満願の日、その帰り道に夕立に会う。仲蔵が近くの蕎麦屋に飛び込むと、破れジャノメ(蛇の目のように太い輪の形をした模様の和傘)をつぼめた侍が着物のしずくを絞っていた。その姿は、黒羽二重(くろはぶたえ:黒紋付袴のこと)に、朱ざやの大小(日本刀の打刀と脇差の2本)を刺した、落ちぶれた下級旗本の姿。これにインスパイアされた仲蔵は、それまでのドテラ(防寒用の綿が入った着物)姿で山賊風の定九郎の衣装を一新。破れジャノメを持つ白塗りの浪人姿で登場するや、この斬新なアイデアにお客も大満足。弁当の箸を止めて食い入るように見入ったという。
このエピソードは、落語や講談になり、脈々と現代まで語り継がれている。
葛飾北斎
熱心に妙見信仰を続けていた葛飾北斎。生涯にその名を30回も改名したことでも知られているが、妙見さまを熱心に慕い、北斎辰政(ほくさい ときまさ)と号していた時期がある。そのころ、北斎は狩野融川(かのう ゆうせん)に破門され、いよいよ食い詰め、絵筆を折ろうとさえ考えていた。そこで、柳嶋の妙見さまに、三十七日の立願をする。
そして満願の日、帰り道で夕立に会う。この時、北斎は雷に撃たれて気を失ったと言われているが、その時に見た鍾馗(しょうき:疫病神を追い払うという中国の神)さまの絵を描き、その絵が評価されると、めきめきと売れ始め、たちまちのうちに江戸一番の人気絵師となる。その後、「狐の嫁入り」や「富岳十六景」などを残した。
このあたりは、紅佳の講談『北斎と幽霊』などでも語らせていただいている。
