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〈書評〉 寄席切絵図(六代目三遊亭圓生 著)

杉江松恋の「芸人本書く派列伝 クラシック」 第1回

鈴本演芸場と末広亭の波乱の歴史

 まず鈴本亭の起原が語られる。ご存じの方も多いかと思うが、元は本牧亭(ほんもくてい)という名称であった。同名の講談専用寄席がかつて存在したが、上野鈴本の経営者一族が出した支店のようなものである。

 本牧の由来は、近所に金沢という菓子屋があったことだ。不忍池を海に見立て、金沢八景の向こうだから本牧岬ということで洒落てつけたのだ。現在の鈴本は、経営者の名字である鈴木と、本牧から一字ずつを取ってつけられている。

 圓生によれば、現在とは違う場所に鈴本演芸場はあったという。大通りに面した向かい側で、震災のために焼けて現在の場所に移転、戦争で焼け、さらに火災で三度焼けた後に、現在の鉄筋コンクリートのビルに建て替えられた。

 元の位置にないのは、新宿末広亭も一緒である。元は堀江亭といったのを、浪曲師の末広亭清風(すえひろていせいふう)が買い取って経営を始めた。1945年に空襲で焼失、戦後は清風が経営から手を引き、土木関連の事業をしていた北村銀太郎(きたむらぎんたろう)が変わって新生末広亭の初代席亭となった。このときに、同じ通りの中で北へ少し場所を移動しているのである。

 『寄席切絵図』の楽しさは、こうした事実が淡々と書かれるのではなく、寄席関係者の人となりが、一つ話として楽しく語られる点にある。末広亭清風もその一人で、姉妹篇といってもいい圓生の自伝『寄席育ち』(青蛙房)にも顔を出すのだが、他にないキャラクターとして本書でも逸話が紹介されている。

 逸話といってもごくくだらないものだ。清風は花札が大好きで、末広亭でもよく札を引いていたという。そのお相手を務めたのが戦前の浪曲界で四天王と呼ばれた初代木村重松(きむらしげまつ)であった。重松にとって清風は先輩格だから普段はおじさん、おじさんと立てているのだが、ある日のこと取っ組み合いの喧嘩となった。相撲好きの重松にぶん投げられて庭に落ちた清風は腹を立て、台所から出刃包丁を持ちだしてきたというのである。

 ここのところが実に圓生らしい悪童のような可愛さで語られているので、ちょっと長くなるが紹介したいと思う。

――冬のことで、どてらを着てえるのが、おっぽり出されたから、前がもう、すっかりはだけてしまいましてね。ところが、この清風って人は、妙な潔癖症で、膝へ手を置かないで、しじゅう手を中途まであげてる……どういうわけだってえと、手が着物につくと汚いと、こういう。そのくらいですから、紙幣なんてさわったら、必ずあとで手を洗う、おッそろしく癇症なんです。で、それがために、ふんどしってものを締めない。あれはその、体へついたりしなんかして、きたないというんで。じゃァどうするかってえますと、あの、さくら紙というやわらかい紙でもって自分の男根を包んで、これをかんじよりで上のほうでしばっておく。で、一度小水をするてえと、そいつをぽんと捨てて、また、新しい紙でもって結いておくという……変な人があるもんで。

 あの口調で脳内再現していただければ幸いである。下ネタがかって恐縮だが、圓生という人はこういう話をさせると実に座談がいきいきしてくるのである。喧嘩の話だったはずがおかしな方向に行ってしまったが、出刃包丁の一件がどうなったかは、実際に読んでみていただきたい。いやもう、このけしからんことで。