梅若丸の悲劇と七つのご利益 ~梅柳寺 墨田院 木母寺

神田紅佳の「あやかりたい! 幸せお江戸寺社めぐり」 第2回

梅若物語とは

 「訪ね来て 問わば応えよ都鳥 墨田河原の露ときえねど」という歌を残して、わずか12歳でこの世を去ったのは梅若丸。

 お話は、今から千年も昔のこと。「梅若丸」という少年が大津の浜で人買いにかどわかされ、連れ去られてしまう。人買いは梅若丸を陸奥で売り飛ばすつもりであったが、幼い子供にとって永の旅路は重労働、隅田の渡しで行き倒れとなってしまった。この様子に人買いは腹を立て、足手まといとばかりに少年を置き去りにして立ち去った。

 この時、瀕死の状態の梅若丸を見つけたのは村の人たち。隅田の渡しの周辺に住む人たちが介抱を続けたが、少年は母への思いを残したまま無念の死を遂げる。 この梅若丸は、今際の際に歌を詠み、村人たちに頼み事をした……。

 「ここ隅田の渡しは、東海道の道筋。私のことを訪ねるものがあるやもしれません。どうか私の亡骸は通りの傍らに埋めてくださいませ。そうして、その目印に柳の木を一本植えてくださいませ」

 梅若丸が亡くなってからほどなくして、天台宗の僧侶、忠円阿闍梨(ちゅうえん あじゃり)がこの隅田の渡しを通りかかり、その地に塚を築き、さらには柳の木を植え、その亡骸をねんごろに供養した。

 それから一年、「幼い子供が大津でさらわれ、陸奥へ連れていかれた」との噂を聞きつけた梅若丸の母親の花御前は、たった一人、京の都を後にして、隅田の渡しまでやってきた。さらに陸奥を目指して道中を急いだが、隅田川を渡るところで、念仏の大合唱を耳にする。これは、隅田の渡しで命を落とした少年の命日、村の人たちが供養をしていたものだ。

 村の人たちの話を聴いて、「その少年はわが子、梅若丸に違いなし」と確信した母親は、塚のほとりに庵を立て供養する。やがてそれは立派な寺となり「梅若寺」(のちの木母寺)と呼ばれるようになった。

 この梅若丸の物語は、室町時代に能作者、観世元雅(かんぜ もとまさ)により『隅田川』と題して発表され、その後、浄瑠璃、歌舞伎の演目として上演され、広く伝わり「隅田川もの」という一つのジャンルとして確立された。

塚から現れた梅若丸の亡霊と対面する花御前
 (木母寺 公式ホームページより)

梅若権現のご利益

 梅若権現に祈ると七つのご利益があるといわれている。

 一、戦いにおける良い運が続く
 二、人に愛され、敬われる
 三、福徳と知恵を授かる
 四、子供に恵まれる
 五、病気が治る
 六、結婚が叶う
 七、災難から免れる

 何ともありがたいご利益である。人生、この七つが叶えば向かうところ敵なしである。ありがたい仏様とのご縁に感謝するばかりだ。

筆者も参加した護摩焚きの様子
 (木母寺 公式ホームページより)