〈書評〉 演芸写真家 (橘蓮二 著)

「芸人本書く派列伝 オルタナティブ」 第5回

写真家・橘蓮二が写し取る落語家の“文体”

 鈴本通いをしていた日々の初期に、林家木久扇に話しかけられたときのことを書いている。当時はもちろん木久蔵である。「毎日ご苦労さん、何だかカメラを持った前座さんみたいだね」という優しい言葉が深く胸に刻み込まれた。2013年に橘は『カメラを持った前座さん』(ちくま文庫)という本を上梓している。題名の元になっているのは、もちろんこのときの言葉だろう。

 演芸人の瞬間が切り取られたどの写真も印象的で、これは実際に見ていただくしかない。こうした演芸写真の楽しみ方は人それぞれである。落語家で言えば、これは何の噺を演じているところだろう、と想像することができる。もっと年季の入ったファンなら、これはあのときの高座ではないか、と記憶を遡ることも可能なはずだ。そうではない、まだまだ演芸の入り口に着いたばかりという方も、年輪の刻まれた表情の一つひとつを眺めていくことで、演芸人の持つ個性に惹きこまれていくはずである。気が付けば実際の高座を追って、寄席に出かけたくなっている。

 橘は写真家だから、ファインダーを覗いた目を通してものを考えているのだと思う。瞬間を切り取りながら演芸人を解釈する仮説を立てる。写し取られた画像を見て、それを検証する。その繰り返しを三十年間行ってきた。

 他の観点からその演芸人を見ている人もいる。当然ながら違う仮説が立てられる可能性もある。橘の仮説と他のそれとを照らし合わせたとき、思わぬ発見が生まれることもあるだろう。視覚ではなく聴覚で、もしくはそれを咀嚼して自分の言葉に置き換えて演芸を考える人に対し、橘は新しい観点を与えてくれる。

 印象的な写真がある。柳家三三が酒を飲む仕草を左横から撮ったものだ。見開きに大きく使われたその写真には「柳家三三の文体」という文章が付されている。紹介されているのは、師匠である故・柳家小三治から三三が、「お前の落語は安らがない」と言われたという有名なエピソードだ。そこから三三は自分の落語を根本から作り変えていった。

「高座においては、余りにも演者の意図をする落語が厳密すぎるとイメージは拡がりづらくなる」と橘は書く。小三治が言わんとしたことにその補助線を当ててみると、何かが見えてくる。橘の写真もまた補助線の役割をするだろう。「文体」とは何かと考えてみるとおもしろい。