伝統を纏い、革新を語る 神田陽子(前編)

「釈台を離れて語る講釈師 ~女性講釈師編」 第11回

文学座から講談の世界へ

陽子 その頃の文学座って、田中裕子さんがいて、同期の富沢亜古(とみざわあこ)さんや矢代朝子(やしろあさこ)さんと、私なんかには無理だと思いました。去年『摂』という芝居をやっていて、あの主人公の朝倉摂(あさくらせつ)のお嬢ちゃまが亜古ちゃんで、矢代静一さんの娘さんの矢代朝子さんが全くの同期で、今も年中会っています。摂さんにもお世話になって、母と喧嘩したことがあって、朝倉家に1週間お世話になったこともありました。「どこか他へ行くんじゃなくて、うちに泊まりなさい!」「はーい」って(笑)。

 その頃、朝倉摂さんって、夜中に絵を描き出すんです。「あんた、地球の裏側じゃ、ピカソが絵を描いてんだよ」なんて言い出して、「もう生きてないけど……」って思ったりもして。でも芸術一家って凄いんだなあと思いました。亜古ちゃんは亜古ちゃんで、朝からベンベンベンベンと三味線を弾きまくって、朝、寝ていられないんですよ。結局、亜古ちゃんは長唄の稀音家祐介(きねやゆうすけ)さんと結婚しました。私も人間国宝の今藤政太郎(いまふじまさたろう)先生のところへ三味線を習いに10年通っていたんですが、ものにならないので辞めたんです。三味線も長唄も音締めができないんです。

陽子 悔しいけど、わかります(笑)

陽子 そう名乗っていた時期もあったようですが、最後は鶴陽でした。私が山陽のところへ入門したので、伯父も移って来て、一鶴と山陽から一字ずつもらった名前をつけていました。

陽子 その伯父曰く、お弟子さんをいっぱい取るのに面倒を見ないし、教えないから、お前が入るなら山陽先生だよって(笑)。でも、一鶴先生は講談界の貢献者ですし、私たちも先生を見習って、講談界のために動かないといけないと思っています。

国立演芸場での高座(神田陽子・提供)