噺家が伝えたい福祉のこと。成年後見制度は「誰かの話」じゃない

「噺家渡世の余生な噺」 第7回

補助・保佐・後見。言葉が示す支援のかたち

 制度というのは、とかく堅苦しく聞こえる。

 「自分にはまだ関係ない」「後見人なんて、誰かがやるものだろう」。そう思う人間こそ、ある日突然、制度のど真ん中に投げ出される。『老い』とは、そういうものなのだ。

 成年後見制度は、一枚岩ではない。本人の判断能力の程度に応じて、支援のかたちが三段階に分かれている。

補助
 まだ自分で判断できることもあるが、一部に手を貸す必要がある状態。たとえば、携帯の契約更新や賃貸契約の同意など。

保佐
 より判断能力が落ち、重要な契約については“同意”が必要になる。家を売る、借金する――そんな重い判断には誰かの目が要る。

後見
 もはやほとんどの契約判断が難しい状態。後見人は本人に代わり、財産管理や契約の締結を行う。

 言葉をなぞると、温度が見える。「補助」は軽く助け、「保佐」は傍で守り、「後見」は全体を見渡して導く。制度とは、言葉そのものの中に、哲学が埋まっているのだ。

専門職後見人という陰の支え手

 では、誰が後見人になるのか?

 家族や親族が担うことが多いが、実は今、その多くが専門職後見人に依頼されている。司法書士、弁護士、社会福祉士――。資格と経験を持つこれらの専門家が、家庭裁判所の選任を受けて後見人となる。

 もちろん、彼らも神ではない。複雑な家庭事情に巻き込まれたり、思わぬ反発に遭ったりする。「誰かの財産を預かる」というのは、喜ばれるどころか、疑われる仕事でもあるのだ。

 だが、それでも彼らはやる。なぜなら、「誰かがやらなければならない」からだ。そして、「他人の老いを支える制度」は、巡り巡って「自分の老いを支える制度」にもなるからである。

 ちなみに私は、社会福祉士の資格取得者であり、制度に身近な介護支援専門員(ケアマネジャー)取得者である。

支える側、支えられる側

 後見制度において、「支える側」と「支えられる側」は、絶えず入れ替わる。

 今日までは支える立場でも、明日には自分が支えられる番になるかもしれない。事故、病気、認知症。誰も例外ではない。

 制度はその時、冷たくも優しくもある。書類を揃え、家庭裁判所に申立て、財産目録を作り、年に一度の報告を行う。やる側にしてみれば、手間と責任のかたまりだ。

 される側にしてみれば、自由を手放す一歩かもしれない。だがそのどちらにも、「覚悟」という言葉が必要だ。支える覚悟。任せる覚悟。どちらかを選ぶのではなく、両方を持って生きていく。

 それが、今の時代の『大人の条件』ではないか。