噺家が伝えたい福祉のこと。成年後見制度は「誰かの話」じゃない

「噺家渡世の余生な噺」 第7回

制度は「誰かの話」ではない

 この国には、「まだ大丈夫だから」「うちは関係ないから」と制度から距離を置こうとする空気がある。

 しかし、制度は誰かのために作られたのではない。「今は大丈夫なあなた自身」が、明日もそうであるとは限らないからこそ、あるのだ。「知らない」ことが罪になる時代に、「頼る」ことを恥じる空気はもう捨てた方がいい。

 制度を知ること。専門家に相談すること。備えておくこと。それは決して『老いに負ける』ことではない。むしろ、『老いに備えて生きる』ということなのだ。

 かくいう私も、実はすでに「後見人を必要とする側」に足を踏み入れているのかもしれない。前にも書いたように、私は、その場しのぎで制度をかじった噺家でもなければ、制度に明るい専門家が落語を披露しているわけでもない。落語も制度も、どちらも本職として関わってきた人間だ。

 噺家の世界ではプロの真打、福祉分野では国家資格を持つ専門職。どちらも本業であり、片手間ではないつもりだ。現場経験も、書類も、制度も講演の内容として語れるだけの裏付けは持っている。

 だが、それでも講演料は、その方たちとそう大差がない。時には、そうした方々よりも安価なことすらある。きっと私の方が、こういった講演業界の価格のつけ方や、その業界の仕組みに疎いのだろう。それも含めて未熟なのだと、どこかで受け入れている自分もいる。

 ただ、そうなると話が少しややこしくなる。これはもう、「成年後見制度という誰かの話」ではなく、どうやら私自身にこそ必要な制度ではないかと、ふと思ってしまうのだ。そうして、もし私に後見人がつくとしたら、その人はこう言うだろう。


 「人様のために尽くしてこい。報酬だの条件だの、気にせずにやれ」

 そんな後見人がいたら、苦笑いしながら私はきっと、その後見人と契約してしまうだろう。そしてまた、落語の舞台に立つのだ。

 少し老いを抱えながらも、どこか吹っ切れたような顔で。

(毎月14日頃、掲載予定)