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〈書評〉 若手だった師匠たち 年間1000席の寄席通いノートから(寺脇研 著)

「芸人本書く派列伝 オルタナティブ」 第7回

大事にしなければいけない記憶

 20人の論について語る前に寺脇は、「80年代、東京の落語家を襲った怒涛の波」という文章を付している。

 1979年に三遊亭圓生が没し、五代目圓楽一門を除く三遊協会の面々が落語協会に復帰、やれこれで落ち着いたところで、真打昇進試験という火種によって新たな騒動が勃発、1983年には立川談志が脱会して落語立川流を興すことになる。その1980年代である。

 この文章で気がついたが、落語芸術協会が鈴本演芸場と訣別して出演しなくなったのも1984年だったという。ちなみに、1979年には国立演芸場が開場したが、1990年には唯一の講談寄席だった本牧亭が閉場している。後者は貸席として落語会も多く開かれていた。今は当たり前になった芸界の風景は、実はこの10年余で形作られたものだということがわかる。

 大事にしなければいけない記憶はいろいろある。

 1980年代の落語芸術協会は、三遊亭小遊三の快進撃から始まったはずだ、というのもそうである。落語協会は春風亭小朝だったかもしれないが、芸術協会は小遊三なのだ。「笑点」に出るずっと以前から、小遊三はテレビの顔になっていた。MANZAIブームの余韻がまだ残る時期、小遊三はゴールデンタイムに声がかかる存在だったのだ。その存在の大きさがあるから寺脇は『落語』初寄稿の題材に、小遊三論を選んだのだろう。

 登場している20人のうち、残念ながら立川左談次だけが故人である。寺脇は左談次と親しく、2018年5月には追悼文も発表している。それによれば、1982年の9月池袋演芸場中席の後、酩酊した左談次が寺脇のアパートを訪ねてきたことがあった。二人ともまだ若く、激論を交わしたが、「気がつけば左談次は来る途中に買ってきたという(!)花火を室内で盛大にやっていた」。危うく火事になりかけたのだ。いかにも昔の落語家にありがちなエピソードである。

「現代の噺家」論では、左談次「短命」のあのくすぐりについても触れている。隠居が「暇だと“短命”になるだろう? な、お前さん」と言うと、男は「へ? あっしは暇だとタンメン食べる」と返すのである。このタンメンは後に談志家元もやるようになり、左談次は自分に著作権があるとしばしば高座で言っていた。それが正しいことを、当時の落語評で確認することができる。

 これも大事にしなければならない記憶の一つである。