水茄子とジンジャーエール

シリーズ「思い出の味」 第15回

 落語と詩。そんなことを言うと、また馬鹿にされるのはわかっている。それでも誰が読むのかわからないことにかまけて思い切って書くが、これも私にとっては妙な取り合わせで、噺家として生きていると、稀に、妙に詩的めいたことを感じる瞬間があるのである。楽屋風景や、寄席裏、その余情。例えば『笠碁』で、「よくこれだけの水がある」と、架空の霖雨(りんう)を眺める、大師匠の目。折よく戸外では雨が降りだす、その音。それは粋とか、そういうものではない詩情で、先日、そういうものを集めて本を出したいとのだとある人に言ったら、鼻で笑われた。そんなことをやるよりお前は落語が下手なのだから稽古しろと言われ、もっともだとも思った。下手という批評は、よくいただく。罪のない会話の節々で。それは、いつまでも刺さる。そうでなくとも、このところの私はどうやらやぶれかぶれである。書きたいことがあるのは、たしかである。原稿の仕事もたまにいただいていたが、あるところからはあなたの書くことは難しいからわからないと、返却されたこともあった。もっと読みやすいエッセイをお願いしますと言われて、書き直した。漢字や文章が読みづらいとの苦情も、多々受け付けている。どうせ噺家なのだから、しょうがないとも思う。決めてしまったのである。噺家と物書き。この妙な取り合わせを、やっていくしかないのである。水茄子と、ジンジャーエール。

 この取り合わせは、語感ほど良いものではなかった。どこか軋(きし)むような夏の歯応えの果肉を飲み込むには、辛口の生姜風味飲料ではどこか足りなかった。むしろそれらは同じ性質で、何遍往復を繰り返しても常に青臭さが残った。うまいと言えばうまいが、何かが、足りなかった。何かが足りないがゆえに、いつまでも口中に若い夏の名残りがあったと、そういえば乙というやつなのかもしれなかった。店主に礼を言って、私はその店を出た。その帰り際に、切る前の水茄子を見せてもらったが、それは丸々と膨れ上がって、立派なものであった。それから私はコーヒーチェーンに入り、落語をさらった。このところ私は、過去に座礁(ざしょう)していたメルヴィルの『白鯨(はくげい)』を再読中である。主人公が船出を待つ港町にて、「おぼつかない、というよりは不気味な闇夜、身を嚙むほどの寒くわびしい夜だった。この町に知人はいなかった。気が気でなく手を入れて懐をさぐってみると、ただ幾つかの銀貨が出てくるだけだった。(阿部知二 訳)」という一文に差し掛かかった時、私はその「身を嚙む」という表現とその旧字が、いかにもあの水茄子の食感に当たっていると思った。そしてこんな噺家の書く小文に世界文学の巨躯(きょく)を入れ込むというのはいかにも妙な取り合わせではないかと、またそんなことを思いながら、私はこの小文を書いている。ひどい、自己的満足である。だからだめなのである。