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優しさと知性で物語を紡ぐ 田辺一邑(中編)
「釈台を離れて語る講釈師 ~女性講釈師編」 第19回
- 講談
真打昇進時、師匠田辺一鶴とともに(神田一邑・提供)
一時期、絶滅危惧種とまで言われるも、現在、東西合わせて120名を超えるまでになった講釈師。江戸から明治、大正、昭和と、主に男性が読み継いできた芸であったが、平成、令和と時代を経て、女性目線による女性の講談が世に送り出されてきた。その時、講釈師は何を考え、何を読んできたのか。第一線で活躍する女性講釈師に尋ねてみた。(田辺一邑先生の前編/中編/後編のうちの中編)
手探りの稽古
―― 入門当時の講談界はどのような感じでしたか。
一邑 何だかよくわからない(笑)。それ以前に、どうしていいかわからなかった。今と違って小屋が本牧亭と永谷の演芸場ぐらいで勉強の場もなかったですし、よそのご一門の先生のところに勉強に行くこともほとんどできませんでした。協会全体が後進を育てようという雰囲気ではなかったんです。
―― 師匠からの話の稽古はあまりなかったんですか。
一邑 『三方ヶ原軍記』と『秋色桜』は教わりました。あとは「本は貸してあげるから」と言われたんですが、ぐちゃぐちゃでその本がどこにあるかわからない(笑)。講談大学で、話の素材として受講者に雑誌をコピーしたものを配っていたんですが、それを参考にしたり、国立演芸場の図書室、昔は書庫に入れてもらえたんですが、そこで講談本を見たりして自力で話を作るしかありませんでした。
―― 私は平井のイッカク書房を訪ねた時に、二階に上がる階段のところに新聞紙が積んであって、「先生、整理されたらどうですか」と話したら、「全部必要なんだ!」って(笑)。あとは江戸川の河原に連れて行かれて『三方ヶ原軍記』を教えられそうになったことがあります。
一邑 誰かに稽古をつけたかったのかも知れませんね(笑)。
はとバスガイドでの修練
前座時代に苦労はつきものである。金がない、仕事がない、食べられない……。一邑が入門した時代は、ホームグラウンドであった上野・本牧亭が閉業し(講談運営は別会場等で継続中)、講談界はいわゆる「冬の時代」にあった。だが、暮らしていくには何かをしなければならない。
今、芸歴20~30年の講釈師に話を聞くと、勉強になり、暮らしの助けになったのが、はとバスの仕事であったと言う。バスで東京の観光名所を巡り、講釈師があれこれとガイドをするというものだ。そこでその頃の講談界を振り返ってもらった。
―― 先日、ワイドショーで、以前特集された、先生がはとバスツアーでガイドをしている映像が流れたのを見たのですが、ツアーガイドをしていたのは、その頃のことですか。
一邑 そうです。若州兄さんはそれで食いつないでいました。バスツアーには定期と主催という二種類あって、主催は人数が集まらないと催行しないんですが、定期は路線バスと同じ定義なので一人でもやる。当時、講談師のコースは定期扱いで、必ず行かなければなりませんでした。私の最低人数は御夫婦一組、いちばん辛かったのは日本語がわからない韓国人三人のみという時でした。
―― それは苦行ですね。
一邑 鍛えられます。話を繋がなければならないので、目に入るものを何でも話題にします。渋滞した時は時間が延びてなおさら大変。おかげで話芸の鍛錬になりましたし、東京の史跡にも詳しくなりました。あとは永谷商事さんが主催していた散歩ツアーも、こちらがコースの企画も出せたりしたのでいろいろ考えました。