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日常を鮮やかに描く言葉の力 神田茜(前編)

「釈台を離れて語る講釈師 ~女性講釈師編」 第21回

できなかった私を、師匠はやめさせなかった

―― そもそも統一教会に入信しようと思ったのは何故なんですか。

 先に友人が入信して、おかしなことを言うようになって、救うために入ったら私がはまってしまって、献身会員になりました。

―― 「小説新潮」(2023年2月号内『かつて仲間だった信者たちへ』)で発表された告白文は読ませていただきましたが、その後、講釈師としての活動に影響はありませんでしたか。

 いまだに信者と思われているのか、毎年依頼を頂戴していた講演の仕事とかが来なくなりました。完全に脱会していて、今は否定する立場ですので、お仕事お待ちしております。

 ここで茜が話していた『スタジオL』は、NHKで1985年(昭和60年)4月1日から1988年(昭和63年)3月17日まで、深夜に放送されていた、糸井重里や林真理子たちがパーソナリティを務めていたヤングアダルトをターゲットにした情報番組であった。

 その1985年11月25日からの三日間、神田陽子、紫、紅が番組に出演。初日は「花の競演・ニューウェーヴ講談の旗手たち」、二日目は「プロから盗め!最先端メイクアップ」、三日目は「インターフェロンを講釈すれば」が放送されており、茜はその番組を見て、講釈師を目指したわけである。

 また茜が講談を見たというのは、小劇場渋谷ジァン・ジァン。1969年(昭和44年)7月にオープンし、2000年(平成12年)4月25日に閉場した、アングラ芸術の発信基地でもあった。そこで、のちに姉弟子になる神田紫の『血文字お定(ちもんじおさだ)』を見たということである。

―― 入門した時は「ふづき」という名前でした。

 私が7月28日生まれなので、師匠が「文月」から取って「ふづき」とつけてくださいました。

―― 前座修業時代はいかがでしたか。

 講談というものを知らずに入ったんですが、前座修業は苦ではありませんでした。掃除をしたり、着替えを手伝ったり、お茶を入れたりと、元々肉体労働は嫌いではないので、人のために働く楽屋仕事は好きでした。楽屋の評判も良かったです(笑)。でも芸がうまくなることはなかったですね。

 まず話ができなかったんです、滑舌が悪くて。「真田幸村」を「サラダ幸村」って発音したり、それに講談特有の口調が全くできない。

 師匠の稽古は口移しで、その稽古をしていると、師匠が苦渋の表情をしているんです。何しろ私ができない。だからいつの間にか師匠自身の稽古になってしまって。これは何年経っても変わりませんでした。でも師匠は「やめなさい」とは言わないんです。私の良いところを探してくれるんです。