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日常を鮮やかに描く言葉の力 神田茜(前編)

「釈台を離れて語る講釈師 ~女性講釈師編」 第21回

師匠のひと言が道を決めた

―― やさしい師匠ですね。

 やさしいんです。ある時「君は絵が好きなんだから、紙芝居をやってみたらどうだ」って、なんとか講釈師として生きていける道を探してくれました。

―― 私も「女子プロレスによるコーダン界活性化の物語」という作品を見たことがあります。絵は得意なんですか。

 好きで、色々と描いていました。頼まれてチラシや葉書を書いたりもしていました。

―― 新作をはじめた時には、どんな反応でしたか。

 「君は新作が得意なんだから、それを続けなさい」って、師匠も新作を手掛けていましたから、後押ししてもらえました。

―― 山陽先生と茜さんと言うと、「君はスカートを履かない方がいい」と言われたエピソードも面白いですね。

 文化服装学院にいたこともあって、洋服は大好きだったんです。前座の頃、ミニスカートを履いて師匠のカバン持ちをしていたんですね。師匠は中村屋のカリーが大好きだったので、いつも連れて行ってくれるんです。ある時、低い椅子の時があって、どうやら下着が見えてしまったようなんです。その時に「君はスカートを履かない方がいいね」って。足も太かったし、それから師匠の前では履かないようにしました(笑)

―― ミニスカートでカバン持ちというのも、なんだかおもしろいですね(笑)

 その頃、衿ぐりの広い洋服を着て寄席に行って三つ指ついて挨拶をしたら、胸が見えそうだったらしくて、女性の先輩から「若い男性の前座さんばかりなんだから、肌のなるべく見えない服にするように」と注意されました。

―― 初高座は覚えていらっしゃいますか。

 前座として本牧亭に入ってすぐに、一ヵ月ぐらいで空板(からいた)でした。

―― 空板ということはお客さんが入っていない状況でということですか?

 その時は、客席に二人いました。(神田)南陽兄さんの前の出番で、『佐野源左衛門の駆け付け』の途中まで。とにかく滑舌が悪かったので、この子はすぐに辞めるだろうと思われていたようです。

 茜が1985年(昭和60年)の12月に入門した頃、東京の講談界はまだ一つにまとまっていた。同じ年の10月に協会会長を務めていた五代目宝井馬琴が亡くなり、その後任として二代目神田山陽が就任。宝井琴調、宝井琴星、桃川鶴女、神田山裕が真打に昇進。兄弟子の神田愛山もアル中を克服して復帰するといった、講談界が動いていた時期であった。

 ちなみに茜が講談協会に正式加入したのは1986年(昭和61年)4月。一緒に加入したのが神田治山(のち廃業)と、それまでフリーで活躍していた八代目一龍斎貞山であった。

(以上、敬称略)

神田茜X(旧Twitter)

「きょうのせつなかったこと」(ブログ)

中編に続く