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〈書評〉 古今東西落語家事典 / 東都噺家系図

「芸人本書く派列伝 クラシック」 第5回

百生と圓生、芸の起点を巡る複雑な系譜

 ここまでは都家歌六の記述に沿ったが、以降外れたことを書く。

 團語時代の師である三代目圓窓は、後の五代目圓生である。デブの圓生と呼ばれた人で、六代目圓生の母親と再婚してその義父となった。

 ご存じのとおり六代目圓生は、五歳の頃から豊竹豆仮名太夫の名で高座を務めていた生粋の芸人である。その歳で義太夫語りになれたのは、四代目橘家圓蔵の内輪(うちわ)になったからだ。1909年(明治42年)、その圓蔵門下で圓童を名乗って落語家に転向する。五代目橘家圓好を名乗っていた1922年(大正11年)に圓蔵が亡くなったため、その門人であり、すでに母と再婚して義父となっていた三代目圓窓が五代目を継いだ。同時に圓好が四代目圓窓を襲名したのである。

 複雑と書いたのはここで、團語=百生は三代目圓窓=五代目圓生の弟子、圓好=六代目圓生は三代目圓窓の師である四代目圓蔵の門下だ。つまり百生から見れば六代目圓生は、芸の上では父の父の子ということになる。つまり伯父である。ちなみに実年齢は、百生が1895年(明治28年)生まれだから1900年(明治33年)生まれの六代目より上だ。

 この二人は変則的な入門の仕方をしているから、芸人としての起点をどこに設ければいいか、素人には見えない部分がある。百生が初代文我に入門したのは1911年(明治44年)だが、東京で橘・三遊の身内になったのは1920年(大正9年)である。対する六代目圓生が落語家になったのは1909年(明治42年)、百生の上方時代を考慮に入れても、やはり出発点はこちらが早い。

落語家の転々人生

 真打になった時期は、六代目圓生が圓好を襲名した1920年(大正9年)である。百生の場合、真打制度のない上方落語界と東京を往復していたこともあり、正式な形では真打昇進をしていないのではないか。落語協会では、客分に近い扱いだったと推測される。それを百生がどう思っていたかはもうわからない。ヒャクショウ、という音の名前を六代目圓生にあてがわれ、内心おもしろくなかったのではないか、と故・立川談志は書いている。

 落語家には香盤というものがあり、真打に昇進した時点で順列が固定される。ただ、その運用は内規に基づいており、見えない部分が大きい。たとえばこの9月に真打となった吉原馬雀は、同時に昇進した四人よりも入門が1年早いのだが、周回遅れの吉事となった。

 その理由は、前の師匠である四代目三遊亭円歌門下を離れ、吉原朝馬の弟子として活動を再開するまで、約1年間の空白期があったからだと本人が落語協会に質問した回答として表明している。このへんの考え方については、素人の立ち入ることではないだろう。

 圓生と百生の関係は、今ほど東京落語界の制度が流動的だった時代を表すものでおもしろい。

 今と違って戦前までの落語家は頻繁に移籍している。最も有名なのは五代目古今亭志ん生で、二代目三遊亭小圓朝を振り出しに、六代目金原亭馬生、三代目小金井芦州、柳家三語楼と一門を転々とした。間には講談師の芦州も混じっている。志ん生は馬生門下だった1921年(大正10年)に、金原亭馬きんの名で真打昇進を果たしているのだが、その後も一門を転々としているのは人間関係がうまくいかなかったのだろう。