〈書評〉 犯人と二人きり (高野和明 著)

「“本”日は晴天なり ~めくるめく日々」 第7回

映像にできない面白さ

 家賃を下げるため、私と金子君はしばらくルームシェアをして暮らしていた。

 普通、ネタを作るにはインプットが大事。漫画や映画や旅行などなど、いろんなことを吸収してアウトプットする作業がネタ作りには必要だと、普通の芸人は大抵、考える。ところが彼は何もインプットしない。ただ寝る。ずっと寝る。そして、起きたらネタを書く。そしてまた眠る。数年間の共同生活でインプット的な作業をしているのを見たことがない。

 『こいつは所謂、〈天才〉という部類の芸人なんだろう』と、軽い嫉妬を覚えたりもした。

 そんな金子君と2年ぶりくらいだろうか、久しぶりに会って話をした。コンビを解散し、現在は作家としてお笑いに限らず幅広く活動している。「お互いコンビではなくなったが、また一緒にライブをしよう」という話の延長で、ネタの適切な表現方法の話になった。

 コントや漫才、落語、思いついたネタを表現するのに、それぞれベストな方法がある。この表現をする手段を変えたら面白さが全く伝わらない可能性がある。

 金子君は、「過去にコントとして作ったネタを小説として伝えるのは難しい」と言う。たしかに映像としての情報がなく、また演者の言い方や間で伝えることができないので、小説で笑いを表現するのは難しいのかもしれない。小説には小説に適した笑いの表現がある。

 そんな会話をしたすぐ後に読んだのが『ハードボイルドな小学生』。

 この話は完全にコメディに振り切っているという訳ではないが、映像のない小説だからこそできる笑いが表現されている。ハードボイルドな口調で、ハードボイルドな考えの小学生が主人公。この話をコントやお芝居にして大人が演じてもきっと面白くならないし、もちろん落語や漫才にもできない。

 映像化して実際に達者な子役が演じれば、形にはできるかもしれないが、きっと小説を越えることはできない。ベストな表現が“小説”なんだというのをすごく感じる話。

 誰かが演じてしまうと、その表現が正解として与えられ、想像する余地を失ってしまう。読者一人ひとりが文章を読み、頭の中で想像したほうが面白さを感じることができる。これが小説に適した笑いなんじゃないだろうか。そして、その面白さが『ハードボイルドな小学生』にはぎっしり詰まっている。

 明確なボケやツッコミがない、シチュエーションの面白さ。お話としても短編とは思えないくらい人間ドラマが詰まっていて、読み応えがある。