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〈書評〉 小金井芦州 啖呵を切る(長谷川憲 聞き書き)

「芸人本書く派列伝 オルタナティブ」 第10回

襲名と休業、そして復帰

 本文に書かれていないことはほかにもあり、1950(昭和25)年に三代目小金井芦州の門人だった宝井馬秀が五代目を襲名した翌1951(昭和26)年、西尾麟慶から「神田愛山(かんだあいざん)」となり、本牧亭で11月6日から8日間の襲名興行を行っているが、以降その名前では一度も高座に上がらず、すぐ「西尾麟慶」に戻っている。この襲名は、神田派宗家を名乗る山田春雄の推挙だったという。

 山田春雄、通称ヤマハルは芸人ではないが、興行界の顔役としてとかく噂のあった人で、八代目桂文楽や二代目神田山陽の著書を見ると、たびたび名前が出てくる。おそらく横車を押されるようなことがあって、断り切れなかったのではないだろうか。

 馬秀の五代目は、四代目の門人であった麟慶がいずれ六代目を襲名したいという意志表示をしたため、1958(昭和33)年に三代目小金井桜州に改名したが、二年後に84歳で亡くなっている。となれば麟慶が跡を継いでもよさそうなものなのだが、年譜で見るとこのへんは少し不穏なのである。1958年、32歳の時には「九月から長期無断欠席続ける(四か月)」との記載がある。また桜州が亡くなった1961(昭和36)年には「三月から高座休業中『講談ではメシが食えない』」との記述があり、翌3月まで休んでいたと思われる。

 復帰後は比較的順調で、1965(昭和40)年には11月1日から7日まで、本牧亭で「六代目小金井芦州」の襲名披露興行を開いている。以降の活動は安定しており、1971(昭和46)年に弟子として小金井総州(後の四代目宝井琴柳)が入門するなど、講談界での地位も実力に追いつく形で安定、1991(平成3)年3月から2001(平成13)年3月までは講談協会の会長も務めている。2003(平成15)年6月29日没、享年77。

 というような情報をあらかじめ持ってから手に取ると、本書はさらに興味深く読めるのではないかと思う。

 以前、当ウェブで『はなしか稼業』(三代目三遊亭円之助 著)を紹介した際、新宿末広亭の席亭失言に腹を立てた前座時代の六代目芦州が、寄席から姿をくらました話を紹介した。師匠の命で所属していた落語芸術協会もすっぱり辞めてしまった。その事情については、当人は本書でこう語っている。

 寄席の絶対数が少なく、講談から見れば色物である落語の席に出なければならない若い講談師の鬱屈が見えるようだ。当然だが、この遁走は四代目芦州の顔を潰すことになり、しばらく旅を命じられる。そこで属したのが、二代目広沢虎造の浪曲一座だった。講談・落語でいう膝代わり、トリ前のモタレを任されたという。