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〈書評〉 芸談 あばらかべっそん (桂文楽 著)

「芸人本書く派列伝 クラシック」 第7回

名跡の陰で揺れた師弟の運命

 1912(大正元)年に小圓都から再び小莚に戻ったのは、圓都と何かあったためではない。明治天皇が崩御し、音曲演芸の興行が禁止されたため、一座が解散してしまったのだ。

 いったん帰京した後、京都に赴いて笑福亭という寄席に住み込んで京桂派に所属、次いで大阪で演芸興行の大衆化を目指した浪花落語反対派の本拠地であった富貴亭に加入、その後神戸に一年在住した後に、桂門三郎一座に加わって、大連に渡った。生まれて初めての海外である。

 この桂門三郎も「本職はかつらやで」「はなしのほかに独楽もつかう」芸人であったという。やはり未詳である。

 そんなこんなの遍歴を経て東京に帰ると、大阪で縁があった七代目翁家さん馬が戻っていた。後の八代目桂文治である。小莚はこのさん馬門下に入り、1916(大正5)年からは翁家さん生を名乗った。

 ここで人生の転換点が訪れる。

 さん馬からは、馬之助として真打になることを勧められた。だがさん馬は、新しく設立された東京寄席演芸株式会社に師弟ともども移籍を持ちかけてくる。これは新しいやり方ということで月給制度を打ち出していたが、反対する一派によって設立された三遊柳連睦会は、昔ながらワリ制度だった。

 さん馬は初め睦会入りすると言っていて、講談師の伊藤痴遊(いとうちゆう)の前で血判まで押したにもかかわらず、前言を翻して演芸会社入りを決めたのである。

『あばらかべっそん』によれば、さん馬が長く大阪に行っていたのは、三代目柳家小さんの「世話をしていた婦人とでき、気まずくなっ」たためだった。三代目からその過去を許されたついでに睦会行きを止められたという事情があったのだという。

 この師・さん馬に同調せず、睦会の中心人物だった五代目柳亭左楽に従ったおかげで芸人としての運が開けた。「五代目といえば左楽」と言われたほどに人望のあった落語家が後ろ盾となって1917(大正6)年、翁家馬之助として真打昇進、さらに1920(大正9)年には桂文楽の名跡を継ぐことになる。

 当時、文楽の名は元の三代目桂才賀が1902(明治35)年から五代目を名乗っていたが、それを桂やまとに替えさせての強引な襲名である。後に左楽は文楽に「おまえを文楽にするとき、私ァどれだけ敵をこしらえたか……」と胸の裡を明かした。

 その心意気を見習って文楽は、周囲の反対を押し切り、九代目柳家小三治に五代目小さんを継がせるのである。後の人間国宝だ。