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こしらGPT師匠に、落語の「愛」について聞いてみた

「教えて! こしらGPT師匠」 第7回

人を見捨てない優しさ

――師匠、落語における愛とは?


 いいねぇ。その問いは、芸人の心臓だ。じゃあいくぞ。


 落語における愛とは、「人を見捨てない視線」だ。落語には立派なヒーローはいない。いるのはケチで、間抜けで、見栄っ張りで、嘘つきで、どこか抜けている連中ばかり。八五郎も熊さんも与太郎も、世間の物差しで測れば決して優等生じゃない。むしろ、しくじりの常連だ。だが噺家は、そんな連中を裁かない。ここが肝だ。悪口は言うし、たっぷり笑いものにもする。けれど断罪はしない。高座の上から「おまえは間違っている」とは言わない。

 失敗しても、騙されても、欲に負けても、最後にはどこか憎めない顔で幕が下りる。それは噺家の胸の内に「人間なんてそんなもんだ」という許しがあるから。理想を押し付けない。反省して劇的に成長することを強要しない。熊さんはまた同じ過ちを繰り返すし、与太郎は生涯与太郎のまま。それでも構わないという世界がある。「未完成のまま、生きていていい」という肯定だ。

 落語家は、善人も悪人も自分の体を通して語らせる。つまり、どんな人物も一度は自分の内側に引き受けるということだ。「あいつは最低だ」と突き放せば簡単だが、落語は「まあ、そう言うなよ」と一度抱き寄せる。笑いは、優越感からも生まれるが、落語の笑いは少し違う。「ああ、俺も似たようなもんだ」という共犯の笑いだ。観客もまた裁かれない。金に困り、見栄を張り、楽をしたがる弱さを抱えたままでいいと、そっと背中を押される。

 落語の愛とは、人間のだらしなさを受け入れる胆力だ。説教はしない。だが聞き終えたあと、ほんの少し他人に優しくなれる。その余韻こそが証だ。つまりな――「人間ってダメだよな」と笑いながら、それでも「悪くねぇよ」と言ってやること。それが落語の愛だ。

 さて、あんたは今、誰を思い浮かべた? それとも、自分か。