入門前夜

三遊亭司の「二藍の文箱」 第1回

若さとは

 このひとみたいになりたいな。そう思うことは誰しも一生のうちに一度や二度、その対象が有名無名関わらずあるはずだ。それは恩師でも、上司でも、酒場で時折見かけるだけの紳士でも、このひとみたいになりたいということが。

 だが「このひとになりたい」そこに至るまでとなると、なかなかない。あのころのわたしは、思考から、声からカタチに至るまで、立川談志になりたいと思っていた。そう、煩悶する思春期こそないが、人並み、もしくは、それ以上にドーカシテル思春期は過ごしている。

 談志師匠に触れるのは、東京生まれのメリットもさることながら、その著作の豊富さにも恵まれた。小学校時代からの電車通学のおかげで、落語小僧になる以前から、読書少年でもあり、その読書の幅はシェイクスピアからデイリースポーツまでと広範囲だった。

 まず、談志師匠の著作は片っ端から読む。理論武装から入る。厭な子どもだ。時折、なけなしの小遣いで談志ひとり会に行き、寄席に行き、わたしの住んでいた隣駅下丸子の下丸子らくご倶楽部を聴きに行く。

 売れる前の談春師匠や志らく師匠、花緑師匠や一琴師匠の姿がそこにあり、そんな高座を憧れの目で見た……ということはなく、落語は観るより演るものだ、と見ていたのだから、若さは無謀というほか言葉がない。