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〈書評〉 最後の芸人の女房 (髙部雨市 著)

杉江松恋の「芸人本書く派列伝 オルタナティブ」 第2回

過酷な生い立ち

 講談界としては初の重要無形文化財保持者、人間国宝に六代目一龍齋貞水が認定されたのは2002年(平成14年)のことである。

 本名は浅野清太郎、父・彦兵衛は雅号を宇晴とした日本画家、母の名はてうという。清太郎は1939年(昭和14年)、東京・湯島天神下に生まれた。宇晴が四代目邑井貞吉と親しくしていたことからかばん持ちのようなことをするようになり、付き従って行った本牧亭で学生服のまま高座に上がって「河内山」と「徂徠豆腐」を読んだこともある。

 そのうち講談師になりたいと真剣に考えるようになったが、貞吉は弟子をとらないと宣言したため、ラジオで聴いたことがある五代目一龍齋貞丈の名前を挙げた。1955年(昭和30年)、前座・一龍齋貞春の誕生である。

 当時の講談協会には前座と真打の間に二ツ目がなかったため、以降11年間にわたって前座修業を行った。1966年(昭和41年)、真打に昇進して六代目貞水を名乗る。

 以上の記述は、塩崎淳一郎『評伝一龍齋貞水 講談人生六十余年』(岩波書店)に基づいている。同書は巻末に年表が付いていて、貞水の長い芸人人生と講談界の出来事が綺麗にまとめられている。しかし、その中に「酒亭 太郎」の開店という項目はないし、ゆき子の名前は1967年(昭和42年)に結婚した事実が描いてあるだけだ。

 本書によって初めて浅野ゆき子という人となりを知る読者がほとんどだろう。

 貞水より一年遅い1940年(昭和15年)、千葉県夷隅郡大原町(現・いすみ市大原)に生まれた。三人姉妹の次女であり、親戚から養子にもらいたいという話があって、生後二ヶ月で小湊の家にもらわれていった。その家で養母が亡くなり、後妻に入ろうとした女性に邪魔にされて、大原に送り返されてしまう。小学一年生だったゆき子に切符を持たせ、付き添いもなく鉄道に乗せるという非情な振舞いだ。

 戻った女良の家では母親に再婚相手ができていて、その男がゆき子に辛く当たった。まだ七歳の彼女に魚の行商をやらせ、売れるまで帰ってくるな、と厳命した。小学校には三日しか通えなかった。

 そのうちに叔父が窮状を見かねて救いの手を差し伸べて、東京に連れて行ってくれた。しかし平和な日々は続かず、叔父の息子が結婚した女性から辛く当たられたため、結局そこにもいられなくなってしまう。住むところを転々としなければならない不幸な日々が続いたが、不思議なことに行く先々で面倒を見てくれる人が現れた。

 そのうちに、養母の姉に当たる人が京王多摩川で料亭をやっていることがわかり、そこで働き始める。一所懸命に働いたおかげでなんとか生活の基盤はできた。

 その料亭は旅館もやっていて、京王閣競輪場でレースがあると、選手が泊まっていた。彼らがヒントを与えてくれるので、車券で儲けることもできたのである。まだ十四か十五歳のことだった。