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〈書評〉 最後の芸人の女房 (髙部雨市 著)
杉江松恋の「芸人本書く派列伝 オルタナティブ」 第2回
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芸人の裏と表
そのように働き詰めの幼少期だったため、ゆき子はほとんど学校に通っていない。
19歳で東京・浅草橋の画材屋に就職したが、高校卒と偽っていた。しかし学校に通っていないから計算はできない。社長に「ソロバン入れてくれ」と言われるたびに「すいません、今商品の勉強してるから、ちょっと手があかないです」などととぼけてやり過ごしたという。
こんな具合に十代での苦労話が続くのが第一章である。第二章で当時の貞春、後の一龍齋貞水と出会って交際、やがて結婚する。ところがまだまだ不幸は続くのである。貞水の母であるてうが、度を越した嫉妬心の持ち主だったのだ。姑との同居生活は筆舌に尽くしがたい地獄であった。
「私のこと、よその人には、あの女とか言って。
そうすると、周りの人がそうじゃないでしょ、倅さんの嫁さんでしょって言ってくれても、冗談じゃない、あれは女中だ家政婦だかってね」
引用するのが憚られるようなひどい行為をゆき子は受ける。それでも我慢し、てうが要介護になると下の世話もした。亡くなったあとで入っていた病院から、遺体を連れて帰るか、焼いて骨にするか、と聞かれ、前者を選んだ。さんざんいじめられた姑をここで家に連れて帰らなければ自分の「後生が悪い」と思ったからだ。
その姑に関する記述は前出の『評伝一龍齋貞水』には出てこない。前座から真打に上がってまだ仕事がない頃にどうやって食っていたのか、という話もだ。芸人としては、表だって明かすようなことではないからだろう。
裏の不細工な一面を見せず、綺麗に世間を生きていくのは芸人の矜持である。だから『評伝』ではそれでいい。だが、本書の主役は貞水ではなくゆき子なので、綺麗事では済まされない部分も見せるのだ。それも芸人の真実である。
貞水と交流のあった芸人たちの話が読めるのも嬉しい一冊である。本牧亭で「貞水の会」があった時のこと、ふらっと立ち寄った談志がこんなことを言い出した。
「貞やん、俺アメ横に行ったら気に入ったネクタイがあったんで買おうと思ったら、千円足りないんだよ。千円で俺に一席やらせてくれない」
談志が来たというので、その日は大入りになったとのことである。こうしたいい話が満載されている。あとは読んでご確認のほどを。
(以上、敬称略)

- 書名 : 最後の芸人の女房
- 人間国宝・一龍斎貞水を支えたおかみさん一代記
- 著者 : 髙部雨市
- 出版社 : 河出書房新社
- 書店発売日 : 2025/5/26
- ISBN : 9784309039664
- 判型・ページ数 : 四六判・204ページ
- 定価 : 2420円(本体2200円+税10%)
(毎月19日頃、掲載予定)