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『小説』 (野崎まど 著)

笑福亭茶光の「“本”日は晴天なり ~めくるめく日々」 第1回

人は幸せな嘘に魅了される

 呪いが解けたようにスムーズに動く自分の足で、舞台を降りた。無言の相方に第一声で謝れず、「いやぁ、緊張したなぁ」と、話しかけるわけでもなく呟くと……

 「緊張が快感に変わるんちゃうんかい!」

 1日限りの相方は、「怒りに震える」というのにぴったりの表情を浮かべていた。きっと彼もあの時の感情をその後の演技の糧にしたに違いない。

 若さは強さだ。数日で「俺は面白い」という謎の自信を早すぎる記憶の風化と共に取り戻す。他に縋れるものがなかったからというのが最も大きい理由だ。

 内海集司は、ただ純粋に小説を求めている。

 面白いことを求め、それに縋った私の「誰かに認めてほしい」という欲ではなく、ただ純粋に読むことを愛している。それでも、生きて人と関わる上で感じる様々な負の感情は避けて通れない。

 この小説は、当たり前だがフィクションだ。この世界の様々なフィクションに、我々は魅了される。嘘をまるで事実だったかのように感じ、心を動かされる。

 『犬の目』という落語がある。目を患った男の目をくり抜き、洗って乾かしているところ、その目を犬が食べてしまう。代わりにその犬の目をくり抜き、男に移植するという古典落語。

 これを口演した後、客席にいた品の良いマダムが私のところへ来て、恐る恐る口を開いた……。

 「あの犬は、その後どうなりましたか?」

 『犬の目』に、犬のその後などない。しかし、マダムの表情はとても不安そうで、目をくり抜かれた犬をとても心配しているのが分かる。

 「……春に芽(目)が出て幸せに暮らしましたよ」
 「良かったぁ」

 満足した笑みを浮かべマダムは去っていった。

 物語は、聴くだけ読むだけで私たちを現実ではありえないようなところに連れていってくれる。この幸せは、フィクションでしか味わえない。

 『小説』が行き着く先も現実ではありえないフィクションだ。しかし、そのフィクションを事実のように感じ、内海集司と外崎真の二人の行く末を案じる。

 想像を遥かに超えていく展開に、胸が高鳴る。脳内に広がるのは、現実では見ることのない景色。『小説』は、壮大な空想旅行のチケットだ。

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  • 書名 : 小説
  • 著者 : 野崎まど
  • 出版社 : 講談社
  • 書店発売日 : 2024/11/20
  • ISBN : ‎ 9784065373262
  • 判型・ページ数 : 四六判・224ページ
  • 定価 : 2,145円(本体1,950円+税10%)

(毎月29日頃、掲載予定)