第六話 「若手人気落語家殺人事件 【事件編】」

「令和らくご改造計画」

#2

 先人たちの努力によって演目は膨大に増え、その中から「よくできた噺」「人気のあった噺」が時代を超えて残り、自然と選別されてきた。

 そして歴史のどこかの時点で、過去およそ数十~数百年分のヒットナンバーを大切に磨き、それを繰り返し演じる、という選択肢が生まれた。それが、いま言うところの「古典派」だ。

 つまり、こうして歴史を逆から辿ってみると、むしろ「古典派」こそが、落語における“ニュージャンル”なのだ。

 少しわかりづらいかもしれないが、「古典落語はクラシックだが、古典派はニュージャンル」なのだ。ここが、どうやら混同されているのだろう。「古典派」の方が昔からあるような、不思議な空気感が、どこかに漂っている。

 いや、何も古典派を悪く言いたいわけではない。ただ、歴史の中で「古典派」の勢いが増してきたあたりからだろうか、「もう、これ以上は噺を増やさなくてもいいのではないか」と考える人たちが、現れ始めたのではないか。

 そして、このあたりから、雲行きが怪しくなる。信じたくはないが、「古典派」が「新作派」を下に見る時代が始まったのだ。

 過去に、それは確実にあった。いや、実際には、いまもまだその名残は残っている。

 「伝統」を引き継ぐ仕事は尊い。そこに異論はまったくない。先人たちが命を削るようにして磨き上げた噺を、いまの時代に通用する形で伝え続ける。それは簡単な仕事ではないし、敬意を払うべき営みだ。

 ただ、である。

 伝統よりもさらに古く、落語という文化の「原点」に近い“魂”は、本来、新作派の側にあるはずなのだ。