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ない物ねだり ~小堀さんのこと~

「すずめのさえずり」 第七回

 ところで、東南アジアのどこかの国では、映画の登場人物がやたら悩んでいるらしい。なぜならその国の人々は「悩む」ことがないので、悩むということをフィクションとして消費しているのだそうだ。

 この話が嘘か真かはともかく、自分にないもののほうがフィクションにしやすい、というのはあると思う。

 そして地獄のような貧乏のどん底を知っているからこそ、人の優しさや温かみを描ける――。

 私は苦労らしい苦労をしたことがない。

 そりゃ前座の頃は自由はないし眠いし、お金もなかった。同じことを二度とはできまい。しかし、それとても、親に頭を下げれば、いつでも「普通の」暮らしに戻れるという、安全地帯に軸足を残したママゴトのような苦労であった。

 そんな私は、人情噺を聞くと、「イヤイヤそんなふうに上手いこと幸せにはならないだろう」と、どうしても粗探しというか、どこか一歩引いた目で見てしまうのだ。

 思えば前座の頃は、犬が人間になるという「元犬」が好きだった。人間になった犬をリアルになんてやりようがないので、開き直ってのびのび喋れたから。

 二ツ目になると、色っぽいおかみさんが出てくる「紙入れ」を振り回していた。男が女を演じている時点で明らかにフィクションだったから。

 今は悲惨な噺や怪談が好きだ。現実の自分は平和に暮らしているから。

 師匠の志ん橋は言っていた。

 「人情噺と滑稽噺なんて、そんな分け方はねえぞ。全部人情噺だ。人間を描いてるんだから」

 そういう点では、幼馴染のおじいさん二人がケンカして仲直りするだけの「笠碁」などは究極の人情噺、全ての落語の中で最も難しいと思っている。たぶん一生できません。

 またこれはテクニック的な話になるが、二ツ目勉強会である師匠にこう言われた(前にも書いたかもしれませんが)。

 「もう君たちには江戸弁は無理だから諦めなさい」

 まったくその通りだと思う。火の見櫓を「しのみやぐら」とか言わなくたっていい。いくら昔のアクセントや言い回しを研究したところで、口から出るのはやはり現代の共通語なのだ。

 苦労を知らない現代人の自分が、現代の言葉で江戸明治を語る。いくら思い悩んだところで、そこから脱け出すことはできない。

 だから私は、志ん生師匠が酒を飲んだようにプロテインを飲み(どちらも飲みすぎると肝臓がやられるのは同じだ。もうこれは酒だ)、とことん養生して、安全運転しながら落語家人生を歩んでいくことにしよう。

 そこにスリルはないけれど、代わりに何かが出てくることを信じて。

 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

(毎月26日頃、掲載予定)

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