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〈書評〉 現代落語論 (立川談志 著)

「芸人本書く派列伝 クラシック」 第9回

誰も共有できなかった絶望感

『現代落語論』で最も有名なのは、本文を締めくくる「落語が「能」と同じ道をたどりそうなのは、たしかである」という一文だろう。

 2002年の「『現代落語論』、その後」で談志は、能と同じ道をたどるはずだったのになぜだろう、と首をかしげて見せ、俺がいたからだ、と結論づけている。公平に見て、それは当たっている。立川談志があのように活躍していなくても落語は演芸として残っただろうが、決して今のような形にはなっていなかったはずである。

 その結語に向けて計算して書かれた本である。再読で、その感が新たになった。1965年の談志は、落語という演芸ジャンルの未来については絶望していて、なんとかするために努力はするが、失敗に終わるかもしれないと考えていた。

 おそらくは、そうした憔悴を共有する者が落語界にはいなかったのだろう。当時は昭和の名人たちがまだ健在で、落語家も芸能人としての知名度を保っていた。そのため、心親しんだ落語界が変容していくという悲観論は出てきづらかったのだ。

 落語界ではなく、マスメディアや出版の人間が関心を示したことから『現代落語論』が生まれた。『現代落語論』が他の落語本と違うのは、その点でもある。落語界の中から外に向けられた、現状を知らせ救援を求める信号なのだ。これほどの危機感をもって書かれた本というのは他に思いつかない。

 読み返してみて再確認したのだが、『現代落語論』には、記憶していた以上に立川談志という個人が反映されている。混沌とした状況を濁った水に喩えるならば、それを濾過するための装置が立川談志なのだ。談志の個人的な体験が状況を捉えるための視座として活用され、自身の記憶を目盛りに使って歴史が記述されていく。

 別の落語家が同じことをやれば視座は代わり、歴史も書き換えられるだろうが、自分ほどに落語と密接に生きている者は他にないという自負があったのだろう。談志はその誇りによって自身と世界の勝負をしている。

「その一 落語の豊かな世界」で、落語という芸能とは何かがまず語られる。現代の客はなぜ、何を笑うのかという分析は、本書を前に進める二輪の一つである。たとえば、漫談は芸ではなくセンスである、という箇所の鋭さ。あまりに鋭い余りに誤読を生み、俺のやっていることは芸ではないのか、と古参漫談家を談志は怒らせることになるのだが。