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講談界を駆ける一鶴イズムの継承者 田辺銀冶(前編)

「釈台を離れて語る講釈師 ~女性講釈師編」 第24回

講談界を駆ける一鶴イズムの継承者 田辺銀冶(前編)

田辺銀冶、近景(講談協会HPより)

瀧口 雅仁

執筆者

瀧口 雅仁

執筆者プロフィール

9歳でスカウトされた講釈師

 昨年「十七回忌追善興行」が弟子たちによって開かれた、昭和・平成を代表する講釈師、田辺一鶴(たなべいっかく)。その功績は講談を世に知らしめて、多くの個性ある弟子を育て、生涯にわたって新作を作り出したことにある。

 そんな一鶴イズムを継承し、講談の原点とも言うべき軍談に積極的に取り組むばかりでなく、軍談の会を同志とともに開き、また自作の講談の中に師匠一鶴を登場させたりと、講談界を縦横無尽に飛び回る田辺銀冶(たなべぎんや)に、今思うことを尋ねてみた。

銀冶 8歳の時に、母親(田辺鶴英)の夢に田辺一鶴が出てきたことがすべてのきっかけです。母の若い頃には師匠がよくテレビに出ていて、そんな人が自分の夢に出てきたことを不思議がっていた時に、新聞で「一鶴修羅場道場」の記事を見つけて、「これだ!」と思って、日曜日に開講していたので、私を連れてお江戸両国亭に出かけたんです。

銀冶 師匠は『三方ヶ原軍記』を読んだんですが、私は面白いとは思わないし、ワクワクもしない。チビ鶴さんが古典を読んでいたのを覚えています。

銀冶 だから私はもう行きたくなかったんですが、母が講談にハマってしまって、家で『三方ヶ原』の稽古を始めたんです。そうしたら子どもだからあっという間に覚えてしまって、一鶴に「やってごらんなさい」と言われて、私は恥ずかしがり屋なんですが、断れなくて「はい」と。それでやってみたら、「君は天才だ。僕の弟子にする」って(笑)。それで母と一緒に、9歳の時に入門することになったんです。

銀冶 母親は楽屋修業をしましたが、私はまだ子どもでしたから協会には入らずに、師匠について回るといった感じでした。

銀冶 『三方ヶ原』のあと、『秋色桜』を教わりました。それから『越の海』に『正直車夫』くらいで、教室のある時に教わりました。