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このエッセイをすでに読む必要のない方々へ(2)

柳家小志んの「噺家渡世の余生な噺」 第2回

伝えたい誰かは、いつも遠くにいる

 けれど、どうして「読む必要のない方々へ」などと書いたのか。これは私の中で、ちゃんとした理由がある。

 話は遡る。舞台は東京、マンションの掲示板だ。ある日、「ゴミの出し方について」の注意喚起が貼られていた。妙に刺さる文言に、どこか胸がざわついた。まさか自分のことでは……?

 そう思った私は、管理人室に尋ねた。
 「小志んさん、違いますよ。あなたはきちんと出しています。むしろ、そういう人にこそ伝わってしまうんです。掲示板を見ていない人間には、そもそも何も届かないんです」

 この言葉を聞いた時、頭の奥でパチンと何かが弾けた。そうだ――あの時の感じに似ている、と。

 高校三年の夏休み前、学年集会の場で進路指導の教師が言った。
 「この中の半分は、進路未定者だ。夏休みが最後のチャンスだ。しっかり準備をするように!」

 そして少し間を置いて、こう続けた。
 「でもなぁ、こういう話を真剣に聞いているのは、もう動き出してる子なんだ。本当に伝えたい子の耳には、届かないんだよ」

 さらに思い出は遡る。中学1年の帰りのホームルーム。担任が教室に言った。
 「清掃時間だけが掃除じゃない。ゴミがあれば拾いましょう」

 そしてやはり、同じように続いた。
 「でもなぁ、こういうことを真面目に聞くのは、もともとやってる子なんだ。伝えたい相手には、響かないんだよ」

 私はその時、まるで映画『シックス・センス』のラストシーンで、自分がもう幽霊だったと気づくブルース・ウィリスのような気持ちになった。ああ、自分はずっと「言葉が届かない誰か」ではなく、「届いてしまう側」にいたんだな、と。

 それからというもの、世の中にあふれる「啓発」の数々が、違った風に見えるようになった。「電車の座席に荷物を置かないで」「傘は縦に持ちましょう」「ポイ捨て禁止」――。

 けれど、それでもなお、傘の横持ちもあおり運転も、ハラスメントもなくならない。どれだけ注意喚起されようとも、それに耳を傾ける人間は、そもそもすでにその行動をしていない。訴えたい相手の耳には、届かないのだ。

 そう思うと、この連載もまた矛盾を孕んだ試みである。『噺家渡世の余生な噺』というタイトルに惹かれて読んでくださった方々は、おそらく普段から余生や老いというものについて、自分なりに考えを巡らせている方々だろう。

 『落語と老後』なんていう安直なタイトルにしなかったのは、正解だったのかもしれない。いや、あれはあれで、誠実だった。だが、私はどうも「幕引き」や「終活」などという言葉が似合わない。

 そうして思うのだ。このエッセイは、もしかしたら「すでに読む必要のない方々」へ、そっと語っているのではないかと。