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〈書評〉 雲助おぼえ帳 (五街道雲助 著・長井好弘 聞き手)
杉江松恋の「芸人本書く派列伝 オルタナティブ」 第4回
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55席に込めた落語の魂
五街道雲助、現在落語界では唯一の重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝である。
「雲助」は、タクシーなどの運転手を侮蔑する言葉としてマスメディアでは放送禁止用語扱いされる言葉だ。人間国宝だが放送禁止用語。この取り合わせが実に芸人らしくていい。
この六月に『雲助おぼえ帳』(朝日新聞出版)が刊行された。「滑稽噺から芝居噺まで厳選55席を語る」という副題通りの内容であり、全体が「落し噺」「廓噺」「人情噺」「世話噺」の四章に分けられている。この第四章に大きな意味がある、ということは後で述べる。
この連載で以前、『五代目小さん芸語録』(中央公論新社)という、弟子である柳家小里んが師匠の十八番について語った本を取り上げた。同趣向の一冊で、同書では故・石井徹也が担当した聞き手を、元読売新聞編集委員の長井好弘が務めている。
長井は、六代目神田伯山が自身の持ちネタについて語る『神田松之丞 講談入門』(河出書房新社)でもやはり聞き手と構成を担当しており、こういった書籍では現在右に並ぶ者のないはまり役である。長い演芸鑑賞歴が見事に活かされた内容になっている。
本書では、本文中の随所に注が挿入されている。たとえば「くしゃみ講釈」の項では映画「化粧雪」に六代目一龍齋貞山が出演して読んだのが「南部坂雪の別れ」か「赤穂義士伝二度目の清書」のどちらかわからないという話が出てくる。
ここに注で、前者は「浅野内匠頭の奥方であった瑶泉院に寺坂吉右衛門が討ち入りを知らせる形」だが、後者は「播磨国豊岡の実家に戻っていた大石の妻に、吉右衛門が知らせる」と書いて「言い立ては同じ」とまとめられる。この注があるとないとでは、読者の理解度は違うはずである。
自由を象徴する芸名の由来
雲助は1948年(昭和23年)、墨田区本所に生まれた。明治大学商学部在学中の1968年(昭和43年)に十代目金原亭馬生に入門、前座名駒七を名乗った。七番目の弟子だからである。1972年(昭和47年)、二ツ目に昇進した際、現在の五街道雲助を襲名した。
最初の著書である『雲助、悪名一代 芸人流成り下がり』(白夜書房)に襲名に関する記述がある。
もともと師匠の十代目馬生が「俺は引退したら五街道雲輔になるよ」と常々言っていたのを「なにものにもとらわれず、きょうはこちら、あしたはあちらと大空をただよう」「ジョージ秋山の『浮浪雲』のイメージ」で気に入って自分のものにしたのである。字面が「そのままだと年寄りくさいから」と言って、馬生が「雲助」に表記を改めさせた。
ゴカイドウクモスケという落語家は過去に何人かいたらしいのだが、表記もばらばらで正式な代数はよくわからなかった。二ツ目昇進の際には名入りの手ぬぐいを配る習わしがある。書画の腕前はプロ級だった馬生にお願いして描いてもらったところ、「五街道雲助」と名を入れたところで師匠は弟子の顔を見て、何を思ったか「六代目でいいやな」と呟いた。それで決まり。
描き終わってから馬生は「六代目」と「五街道雲助」のバランスがおかしいな、と首をかしげたという。