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講談界を駆ける一鶴イズムの継承者 田辺銀冶(前編)

「釈台を離れて語る講釈師 ~女性講釈師編」 第24回

二ツ目直前で「逃げ出したい」

銀冶 子どもの頃は相対で、家に来てくれて、そこで稽古をしました。

銀冶 ちびっ子講釈師として取り上げられました。師匠はセットで売り出すのが好きで、私の時はダイスケ君とセットにして、テレビやラジオに売り込みをしてくれて、密着取材を受けたりするんですが、私は何しろ恥ずかしがり屋で……。

1992年、ちびっ子講談師としてデビューした頃。師匠一鶴と(提供・田辺銀冶)

銀冶 シャイなんですよ! でも、お客さんのおじいちゃん、おばあちゃんたちが涙を流して喜んでくれて嬉しかったし、6年生までは楽しんでやっていました。

銀冶 中学生になると思春期を迎えるでしょう。同級生は誰も講談を知らないですし、講釈師も大人ばかりですし、なんだか講談をやっていることが恥ずかしくなってしまって。でも、誰にもそのことは言えませんでした。

 そうして高校に進学したんです。親しかった友人が進む高校に一芸試験があって、講談が使える!って、そこの日本文化コースに。それに勉強はしたくないけど、セーラー服を着たかったんですよ。とんだ不届者ですよね(笑)。

銀冶 講談協会は15歳から入れることもあって、「芸の道は、入るなら早い方がいいんだ」と言われたので、その時から前座修業を始めました。

銀冶 昼席には出られませんから、学校が終わってから、お江戸日本橋亭へ行って。あとは日曜日や祝日、学校が休みの日に楽屋修業をしていました。

銀冶 3年間ですね。最後に立前座(楽屋の一切を取り仕切る一番古株の前座)にまでなって、いよいよ二ツ目が見えてきたという時に、「逃げ出したい」と思ったんです。

銀冶 合ってます(笑)。この先、進路をどうするといった段階で、やりたいこともないし、やりたい仕事もないし、どうしようかなと思って、夏ごろに「大学へ行こうかな」とも思いましたが、受験のための努力が嫌で。

 そうしたら知り合いが「あなたには海外の星がある! 海外に行きなさい」と言ってくれて、海外に逃亡したんです。

銀冶 私は好きなこと以外には努力はしないんですが、石橋を叩いても渡らない性格なんです。それに日本が好きで、家が大好き。それでも逃げ道はこれしかないと。

 母親が心配して、方角を見てくださる先生のところを訪ねました。温暖なオーストラリアがいいなと思っていたら、その先生は「オーストラリアは方角が悪い。ニュージーランドか、パプアニューギニアにしなさい」って、まさかのパプアニューギニア(笑)。

 それで旅行会社で働いている友人に相談したんですが、パプアニューギニアは治安が良くないから、ニュージーランドがいいということで決めました。