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謎のカバ臭と忘れ物キング ~桂雀々エピソード2
「ラルテの、てんてこ舞い」 第3回
- 落語
- その他

雀々師匠は大の動物嫌いだったが……(画:石渡芙美)
匂いに敏感だった雀々師匠
8月9日は、桂雀々師匠の誕生日である。生きていれば、65歳。そう考えると、やはり、あちらの世界に行くのはちと早すぎるだろう。本人も「なんで俺、ここにおるんやろう?」と今更ながらに後悔しているに違いない。
いや、待てよ。大好きな枝雀師匠や、ざこば師匠に囲まれて、生前我慢していた酒をたらふく飲み、結構、賑やかに過ごしているかもしれない。
いずれにしろ、今回は雀々師匠を偲び、思い出話のエピソードを紹介しようと思う。
雀々師匠はああ見えて、自分の体臭や匂いに過剰なまでに敏感である。良き香水があると聞けば、多少高額でも、勢い勇んで買いに行くほど積極的である。餃子やペペロンチーノ、キムチなどニンニクが効いた料理を食べようものなら
「俺、臭くないか?」
「えっ、大丈夫ですよ」
「ほんまか? いや、匂うんとちゃうか?」
と人の話もろくに聞かず、くんくんと自分の匂いをしつこいほどに確かめるのである。「なんでまた、そんなにも匂いのことを気にするんですか?」と聞いたところ、原因は、「カバ臭」にあるらしい。
「カバシュウ? なんですか? それ?」
「カバ臭は、カバ臭やがな。わからんやっちゃな。カバ臭やって!」
「だから、そのカバ臭って、どんな匂いなんですか? 例えば、雑巾をしぼった匂いとか、生ものが腐ったような匂いとか……、何かあるでしょう? 例えて言えば、どんな匂いなんですか?」
「んんんんん……いや、ない! カバ臭は、カバ臭なんや!!」
話にならないので、事のいきさつを聞いてみた。
雀々師匠は若い頃、在阪テレビ局で頻繁にレポーターの仕事なども良くやっていたらしい。
ある日、東武動物園での仕事が入った。このエッセイの第1回にも書いたが、師匠は大の動物嫌いである。今なら速攻で断ると思うが、若い売り出し中の落語家である。来るものは拒まず、笑顔で答えたらしい。
「オッケーです! 全力でやらせていただきます!」
恐るべき、カバ臭の悪夢
覚えているだろうか。その頃は、東武動物園の名物園長(故・西山登志雄さん)、通称「カバ園長」が大活躍されていた時期である。動物園のカバの口を開けさせたり、撫でたりするショーが面白く、たびたびテレビでも紹介されていた。
その日も、当然ながら園長に案内され、師匠はしぶしぶながらも、カバエリアへ到着する。
「さぁ、雀々さん。私がこのカバの口を大きく開けてみせますよ。はいッ!」
カバは、園長の合図で大きな口を開ける。
「おおっ! すごいですね園長!」
「じゃあ、雀々さん。このカバの口の中に頭を突っ込んでみましょう!」
「えっ? えええ~っ! いやいや、それはあかんて。それはどうにも……」
と、どう抗ってみても、生放送のカメラは廻り続けている。
「いや、ほんまに。いや、あかんて!」
「大丈夫! ちゃんと私が押さえてますから、食べられることはありません」
意を決した師匠は、エイや!!のごとく、カバの口に中に頭をつっこんだ。すると間髪入れず、カバの厚く粘り気のある生温かい舌が、ベロリとゆっくり師匠の顔をなぶり、ついでに左方向、右方向と都合3回くらいは舐められた、らしい。
カバの唾液でべちゃべちゃになった師匠は、たまらずに逃げ出し、ヒーヒー言って本当に泣いたそうだ。
それから数日。どうしてもカバ臭が抜けない。
女将さんはおろか、子供たちにも「お父ちゃん、くっさ~い」と言われ、飼い犬も側に寄りつかず、家の中ではひとり孤独に耐えていた。
落語会の楽屋に入ると「あっ、師匠、お疲れさまです」と最初は笑顔で挨拶する若手も、やがて耐えられないのか、鼻を押さえて逃げて出してしまう始末。お姉さんのいるお店に行けば、「あら、いらっしゃい~」と迎えてくれるのは数秒、その後は誰も師匠の横に座りたがらない。それはそうである。こんなにも臭いのである。
「俺はどれだけ臭いのか……」
「憎むべきは、あのカバである。なぜ顔を舐めた……」
「なぜ、断らなかった……」
そう思っても後の祭りである。カバに文句を言ってもしょうがない。この一件から、師匠の動物嫌いはますます増長した。
そして、カバ臭のトラウマは生涯に渡り、治まらなかった。
恐るべしかな、カバ臭。