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社会派講談の旗手 神田香織(前編)

「釈台を離れて語る講釈師 ~女性講釈師編」第5回

師匠の自由な教えとすれ違い……

香織 直接には言われませんでした。私たちはまとめて入りましたから、総体的にみんなが色々と言われて、「山陽さんのところは、こんな女の子ばかり集めて……」と、そんな感じで言われていたそうです(笑)。

香織 そこまでは思いませんでしたが、山陽師匠が前座の頃から「何でもやっていいよ。やりたいことは何でもやりなさい」と言ってくれたり、「前座だからって遠慮しなくていい」と言われたので、私もその気になって、国立演芸場を借りて、詩吟の先生方と一緒に忠臣蔵をやったり、詩吟に合わせて剣舞を踊ったりしたんです。

 その頃、2~3年、剣舞の先生について教えてもらっていたんです。剣舞という芸と講談という芸を合わせてやれば、和風ミュージカルみたいになると思って、それをやったら、顰蹙(ひんしゅく)を買ったりして……。でも師匠が壁になって守ってくれたといった感じでした。ですから、師匠が山陽でなかったら、私は続かなかったと思います。他の兄弟弟子も、山陽師匠だから自由にあれこれできたんじゃないかなと思います。何をやっても肯定的に許してくれましたから。

高座の上で様々な試みを行った

香織 あまり怒る人ではなかったですね。私は目立つ方ではなかったから。私が出戻りでいわきに帰ってしまった頃に、なかなか会う機会がなくなってしまったんです。同じ頃に師匠が講談協会を出てしまったので、その時、師匠と話し合って、子育てもあるし、身の回りも慌ただしかったので協会に残りたいと話したら、「君は毛色も違うからいいんじゃないか」とか言ってくれたんです。

 でもその後、私とそんな話を忘れてしまったらしく、すったもんだがありました。師匠も協会の中で色々なことがあって協会を出た訳ですが、弟子の私が協会に残る選択肢を選んだので、裏切られたという感もあったのではないでしょうか。

 しばらく口をきいてもらえないこともあって、私も子育てが大変な頃でしたから、師匠のところにご機嫌伺いに行くこともできなくて、師匠が入院された時に、私のことを色々と言っているということを耳にしたので、ご挨拶に行ったら「君は来るのが少なかったね」と言葉少なめに……。苦労してでも足を運べばよかったなあと思っています。

香織 そうかも知れません。申し訳なかったなあと思います。山陽一門はみなさん優秀で、外に出ようという強い気持ちがあって、そうした背景があるから、今の勢いに繋がっているんだなと思いますね。私はその頃、いわきにいたので、たまにしか東京に来られなかったので、講談協会のいい意味で緩やかな、そして優しい雰囲気に支えられたのかも知れません。