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〈書評〉 雲助おぼえ帳 (五街道雲助 著・長井好弘 聞き手)

杉江松恋の「芸人本書く派列伝 オルタナティブ」 第4回

落語に宿る五感の妙

 この『雲助、悪名一代』は白夜書房の〈落語ファン倶楽部叢書〉の一冊で、惣領弟子である桃月庵白酒の『白酒ひとり壺中の天 火焔太鼓に雪見酒』(白夜書房)と同時発売だった。

 白酒本には師匠の得意ネタを紹介する章があるのだが、その中に「雲助は首が伸びる」「あれはおもしろすぎてずるい」と評価する箇所があった。台詞回しだけではない身体表現への言及がおもしろかったという記憶がある。

 「首が伸びる」と言っても、ろくろ首ではないのだが、そういう風に見えるように上体を使うという話である。上に書いた「くしゃみ講釈」に関するくだりなので、注意して読んでみたが「首が伸びる」ことについての言及はなかった。当たり前か。第三者にはそういう風に見える、という話なのだから。

 その「首が伸びる」くだりは「のぞきからくり」という大道芸を主人公が見る場面である。「のぞきからくり」には独特の伴奏がある。からくり節として独立したメロディにもなっているのだが、雲助は調べたものがどれもピンと来ず、自分の節を作った。後になってテレビでのぞきからくりをやっているのを見たら、自分の作ったその節とそっくりで驚いたというのである。

 この話、雲助がそうやって資料に当たって調べたというところがまず興味深い。その結果、自分の耳を信じて作ったら、実際の節とほぼ同じだった、というのがおもしろい。邦楽に関するセンスが正しかったということだろう。本書では「妾馬」の項などで何ヶ所か、若手の唄う都々逸の節がなっていない、という話題が出てくる。

 ストーリーだけではなく、音感など五感のすべてを含めたものが落語の演出だ、ということが書かれているのである。

雲助が語る圓朝の野暮と粋

 原典を調べるといえば、三遊亭圓朝の話題がたびたび出てくる。ご存じのとおり、雲助は圓朝創作と言われている噺を多く手掛けている。圓朝全集に入っている中にも、実際に本人が書いたかどうかは疑問のものが含まれている、という話もたびたび出てきて「鰍沢」などは怪しい、と指摘されている。

 書かれた文章をただ音にするだけではなく、実感の伴った世界にするために落語家は行間を読むのである。だからこその「鰍沢」読解だ。

 雲助は圓朝原作の特徴を「ちょっと野暮」なことだと言う。殺しの場面を例にとっても、談洲楼系の「お富与三郎」のそれは「すごく粋」だが、圓朝物は野暮ったくて、「とても芝居にはかかれない」。その違いは虚実の配分にあって、虚が多ければ粋になるし、実が多い、つまり人間というものをえぐったものは野暮になるというのである。

 圓朝は活動期間が長いので、明治に入ると名士との交流が増え内容も洗練されていき、「名人長二」では偽善的と言ってもいいような人物が主役を張るに至った。そうなる前の江戸時代、初期のエッセンスに雲助は注目する。

 「緑林門松竹」はその初期作品だが、あまりにも非道な噺である。ただ「これを嫌味残さずにやると、かえって爽快感を与えるんですよ。ピカレスクってのはそういう魅力があるじゃないですか」と雲助は言う。