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“施設長X”の献身

「噺家渡世の余生な噺」 第6回

四、虚栄の果実

 Xには、虚栄心があった。

 いや、それこそが彼を動かす活力源だった。社会奉仕団体への入会、民生委員、地域行事からの来賓招待。地域から「さすが施設長」と持ち上げられることが、彼にとっては何よりの報酬だった。

 時折、現場に現れると、重箱の隅をつつき、威厳を示す。

 「ここは俺の施設です」――それが口癖だった。だが、もはや土地も建物も法人のもの。現場職員は、肩書きだけが全ての無資格の男に頭を垂れざるを得なかった。

 本来、介護の現場はチームで支え合うものだ。だがその理念は、Xのヒエラルキー型の発想に押し潰される。閉ざされた施設という小さな社会では、その歪みが増幅していった。

 福祉職に就こうとする者は、対象者への貢献を志に学び入職してくる。しかし現実は、Xへの献身を求められる場となり、個々の志や専門性は、権威の前にかき消されていく。

 介護職員が入所者から暴力や暴言を受けても、Xは決まってこう言った。

 「それも仕事のうち」 あるいは、「本人の介護技術の未熟さ」と。

 Xにとって入所者は「お客様」であり、職員は「コスト」であり、同時に自らの虚栄を支える「道具」でしかなかった。

 Xのその背中を、入所者たちはよく見ていた。施設長が職員を見下ろすように扱う姿は、やがて入所者自身の態度をも変えていった。職員への軽視は日ごとに増し、暴言や暴力が「当然の権利」のように繰り返される。

 介護保険制度の仕組みを理解しないまま、「自分が全額を払っている」と信じて疑わない入所者がいる。彼らの言葉の裏には、制度の複雑さと、職員を“下請け”のように扱う社会の意識が滲んでいる。

 だが、介護保険施設は、介護付きホテルではない。ここで働く者は、客の機嫌を取るためにいるのではない。人の老いと暮らしを支えるためにいるのだ。

 Xはその根本を、ついぞ理解しようとはしなかった。理解してしまえば、自分の立っている場所がどれほど脆い虚栄の上に築かれているかを、認めざるを得なかったからだ。

 Xにとっての栄誉は、利用者の生活の質や職員の幸福ではなく、Xへの称賛の言葉だけであった。

 虚栄の果実は甘い。しかしその甘さの裏には、疲弊する現場職員と、管理の名目で歪められた現実が潜んでいた。