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第七話 「若手人気落語家殺人事件 【解決編】」

「令和らくご改造計画」

#2

 そして、騒動には必ず中心人物がいる。

 言い方を選ばずに表せば、その人物が「犯人」だ。こち亀でいえば、両津勘吉。落語でいえば、八五郎や与太郎といった存在である。

 だが、その犯人が憎たらしくなってしまっては、コメディは成立しない。

 なぜなら落語とは、その人物の失敗や不手際―― ある大看板は「業」と呼んだもの ――を距離を取って眺め、それを楽しむ演芸だからだ。

 もちろん、悪党が酷い目に遭う話が、まったく笑えないわけではない。悪党成敗の物語は、時代も国も超えて愛されてきた。

 落語の中にも、侍に一矢報いるような噺は確かに存在する。ただ、その場合は「成敗する側」に主人公がいる。当たり前の話だが。

 そうした噺を除けば、落語の大半は、憎めない人物が起こす騒動で構成されている。だから、その周囲の人間も自然と穏やかな反応になる。

 憎しみは描かれない。というよりも、そういった内容の落語は流行らないために、残っていない。結果として、「嫌な落語」は存在しないのだ。

 これが、落語長屋の「寛容」の正体である。

 もちろん、江戸という文化的背景がまったく関係していないとも思わない。しかし、作家視点で見れば、ごくごく当たり前の淘汰の結果であって、それが「江戸の町は理想郷だった」とでも言うような綺麗事でまとめられているのも、作り手側の視点で見れば歯がゆい。

 優れた落語は、必然的に「憎しみ」と距離のあるエンタメの方程式に則っているだけの話なのだ。べつに他種のコメディだって、みんなそうだ。

 それでも、理由はどうであれ、落語の世界は確かに「寛容」だ。そこに違いはない。