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街の区々、密と蜜

「艶やかな不安の光沢」 第2回

街の区々、密と蜜

そのうちにまちまちは、みつになり滴り

林家 彦三

執筆者

林家 彦三

執筆者プロフィール

 肩こりや腰痛はないのに喉の調子だけがときおり芳しくないこの若手の噺家は、時折、というよりも往々にして、その喉をいたわるのを理由に稽古を中断して声をひそめていそいそと読書を嗜み、まったく別の物語世界に沈殿し空想に勤しんでいるが、いつもながらの勝手な解釈でその世界を右に左にかみしも切っていつの間にか自家薬籠中の物のごとくにしてしまう悪癖があるから、たとえば語彙ひとつ取ってもそれがいわゆる勘違いされたままお手製の煎じ薬にこっそりと調剤させてしまうことも、案外、多い。

 どうやら私は以前まで、区々たる、という単語の語法を間違っていたようである。
 くくたる、という、その語調の冴え冴えとした心地よさによって、意味よりも先に持ち出したくなるということがどうやらひとつの原因で、それは日々言葉に対してひと足先に音声的に付き合って、主に自分を慰めるために服用してしまう生活習慣にも関連する不甲斐ない不内外因でもあろうが、私はどうやらこのどこか抜け目のない語彙を、ほの暗く、こまごまとした風景、もしくはその寂れたさま、というような、たとえば区々たる街というと、露地が八方向に張り巡らされて、軒並みが犇(ひし)めき、どこか場末の饐(す)えた匂いのする一領域、というような描写をなんとなしに脳裏に繰り広げていたのだが、ご案内の通りそもそもこの区々たるという言葉の辞書的な意味は、まとまりがないとか、取るに足りないとか、まずそのような意味を持つものであり、つまりそれは価値が低く、視野が狭い、という形容動詞となる。

 診療してみるに私はおそらくこの「区」という漢字に、田舎ではとうてい使用されない住所表記の、宛先不明にも近しい地理的な憧憬(しょうけい)が思い起こされ、それがどこか都会的なものとして自らの語彙の籠中に据えられてしまったものと思われる。それに区々と書けば、まちまち、とも読むから、これがどうやら町、街、というようなあらゆるまちを想起させ、そこに行き止まりを囲う繰り返し符号によって曲がり角がつくことで、都市の暗部の、そのすきまをぬっていくような気にさせられるところがあったのだろう。

 そういう言葉は、誰しにもあるように思う――たなにあげるわけでも、たかをくくるわけではないが、どうやら私のこの誤用は、言葉の範疇においては必ずしも間違いではないらしい。少なくとも、どうやら誤飲ほど致命的ではないようである。またそんな勝手なことを言って強がってみるが、どのような言葉も、辞書的な意味とは微妙に突き放されているようで、この微細な違いの透かし絵のつみかさなりによって姿かたちが成立しているような気もするし、経験上、このたびの私の軽率な勘違いは、それはいうなれば濃密な間違いでもあり、たとえば区々たる街は、過去の私の、いわばそれ以前の街――ほの暗く、こまごまとして寂れた街は――虚を突かれたような現実的な〈正しさ〉を知ったあとでも、引き続きそこに残って、まとまりがない街、取るに足らない街、という新たに付与された意味を受け入れてもなお、その風情が辻に角々に留まるのである。もちろん、少しく言葉をあつかう者としては訂正も反省もしなければならないが、今回の病状においては、前者のような街は後者のような街であると言えばそう言えなくもない、つまり等号も不等号も、ほぼ同等にも行き来できる抜け道があるという、さらに微妙な間違いによって引き起こされた例であるとも思うので、開き直るわけではないが、それこそ区々たる間違いなのかもしれない。そして思えばこの、まちがい、という言葉の中にも、音声としてはあきらかに、正しく、新たなる「まち」が潜んでいることに際して、私はある一軒の家のことを思い出す。